6月12日の夜、ミモロは、京都ホテルオークラに出かけました。目的は、公益法人 京都青年会議所が主催する「大船鉾復興記念フォーラム」に出席するため…。「だって、京都に来てから、もう2回も、大船鉾の粽授与のボランティアしてるんだもの…と、大船鉾復興に思いを寄せるミモロです。
フォーラムが始まる前に、大船鉾のある四条町のお囃子方が、笛や太鼓などで演奏を披露。
ミモロは、祇園祭の興奮を思い出したように、心弾ませ聞き入ります。
今回のフォーラムは、京都青年会議所の6月例会で、まずは、理事長の岡野真之さんの開会のご挨拶から…
なんでも、京都青年会議所は、京都の伝統文化を守ることの大切さを思い、大船鉾の復興のために、2000万円の寄付を行ったそう。それにより、1864年の蛤御門の変の時に、焼失した鉾の木組みを作ることができたとか…。ほかの団体などからも、支援をもらい、ついに今年、150年ぶりに、大船鉾の姿が、祇園祭で見られることになりました。
ミモロが、大船鉾の粽授与のボランティアを始めた2012年に、久しぶりに唐櫃巡行を行うことに。それまで100年以上、四条町は、宵山で、焼失を免れた鉾の装飾品やご神体の神功皇后の御尊面を飾る居祭(いまつり)だけを行っていたのです。
「その時だって、山鉾巡行に、参加するって、本当に感激的だったよね~」と、2年前の祇園祭を思い出して、目を潤ませるミモロです。
基調講演は、「大船鉾復興と祇園祭後祭復活について」。講師は、祇園祭山鉾連合会理事長の吉田孝次郎さんです。
太平洋戦争で中断した祇園祭。戦後、占領軍に祇園祭に関するもの、すべてを没収される危惧もあったそう。でも京都の町衆の懇願で、昭和22年に、四条通に、長刀鉾と月鉾の2基が立った時の感激は、忘れられないものだったと、吉田さん。凛として立つ鉾の姿は、戦争で家族を失ったり、戦後、家財を没収され、悲しみにあった京都の人々の心に、復活の力を与えたのです。
巡行は、米軍が見守る中、長刀鉾だけ、寺町通までの往復を。月鉾は、立ったままだったとか。翌年は、北観音山と船鉾が立ち、やはり四条通を進みます。でも、その時は、後祭の北観音山が、先祭の船鉾の前を進むという珍しい巡行に…。
祇園祭が、今のように華やかな祭りになるには、それからかなりの時間を経てのこと…。
その間のさまさまなお話しを、静かな口調で語られる吉田理事長。
ミモロは、そのお話しにじっと耳を傾けます。
「いろいろあったんだね~」と感激しながら…。
さて、今年、復活する後祭。そもそも山鉾巡行は、八坂神社の神輿が町を巡るまえに、町を清める役割で行われるもの。神輿が、高島屋のそばの御旅所に入る17日に、山鉾が巡行するのを先祭。そして24日に、御旅所から神輿が八坂神社を戻る日の巡行を後祭といいます。もともと分かれていた山鉾の巡行を、交通事情などを理由に昭和41年に、先祭だけを行うことに。そのため、後祭の山鉾は、先祭の巡行の後ろに従うスタイルになりました。
神事の意味からすると。これはいかがなものか…という意見も多く、それで今年は、2つの祭りを本来の形にもどすことになったのです。
また、先祭・後祭あわせて32基の山鉾巡行は、なんと4時間以上かかります。それに今年、大船鉾の復興で、33基となり、さらに交通規制の時間が長くなると懸念されたとも…。
さらに巡行の最後尾が大船鉾は、新町通の四条通南側に、町内があり、そのため、鉾を戻すためには、大船鉾より、北側に町内がある、八幡山、北観音山や南観音山、そして先祭りの放下鉾など、巡行を終えても、解体することができず、大船鉾が、戻るまで待っていることになります。これでは、5時間以上かかるのは必須。これではまずい…ということもあり、本来の先祭、後祭別々の巡行スタイルに戻さざるを得ないという事情も…。
17日の先祭の山鉾巡行は、長刀鉾を先頭に、船鉾まで、全23基が、四条通から、河原町通、そして御池通へと巡ります。
一方、24日の後祭の山鉾巡行は、北観音山を先頭に、大船鉾まで、全10基が、御池通、河原町通、そして四条通へと進みます。
つまり、同じコースを逆回りするのです。
続いて、立命館大学の矢野桂司教授により、「コンピューターグラフィックで蘇る大船鉾巡行風景」がスクリーンに映し出されました。
「わーこんな風に動くんだ~すご~い!」さまざまなシーンに映し出される大船鉾の姿に、ミモロは、もう夢中。「早く本物がみたいなぁ~」と、24日が待ち遠しい様子です。
そしてフォーラムの最後は、「大船鉾復興と後祭復活」~地域にもたらした影響を次代へ活かす~をテーマに、パネルディスカッションが行われます。
パネリストは、門川大作京都市長、四条町大船鉾保存会の松居米三理事長、そして祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長です。
「ユネスコの無形文化遺産に登録された祇園祭は、京都の宝。後祭の復活、大船鉾復興は、祇園祭の新しい時代の始まり、これからも京都市もさまざまな面から支援してゆきます・・・・」と門川市長。
100年以上の長きにわたる念願の大船鉾復興を実現した四条町の松居理事長は、復興までの歩みを語られました。
「大船鉾は、平安時代にその名が記載されている歴史ある鉾で、応仁の乱や天明の大火などで、鉾の木組みは、焼失し、再び作られてきました。でも、蛤御門の変で焼失したのちも、復興に尽力しますが、明治になり、町に小学校などを建てることになり、その復興資金は、子供たちの教育のために使われ、そのためなかなか再興ができませんでした…」復興までのさまざまな状況、その中でも決して失われなかった復興への思いを、静かに語られ、その言葉が聴衆の胸に届きます。
大船鉾復興には、ほかの鉾町の協力も…。船鉾は、その木組みの大きさを細かく計測させてくれたそう。
有志を募り、始めたお囃子の復活。今は、町内の子供たちも参加するのを憧れる存在に…。次の世代への確実な橋が架けられたのです。
会場で、話を聞く大船鉾のお囃子方の脳裏にも、これまでのいろいろな情景が浮かんでいることでしょう。
「わかる…わかる…」毎年祇園祭を大船鉾のそばで、過ごしたミモロにも、初めて山鉾巡行に参加したお囃子方の皆さんの様子がよみがえってきます。
「ついに夢が実現するんだね~」四条町の町衆の喜びは、一方ならぬものがあることでしょう…。
最後に、京都青年会議所の直前理事長の小林育朗さんの元気あふれる閉会の挨拶で、フォーラムは終わりました。
閉会後、ミモロは、顔なじみの皆さんにご挨拶に…。
「あ、いつも粽のお手伝いしてくれてる方ですねー」と松居理事長。「今年もよろしくお願いしますね」と。「はい、ミモロがんばります!」
「あ、ミモロちゃん、ここにも来てたの…」と門川市長。「はい、ミモロ、大船鉾の粽のボランティアしてるんです」
「はい、これあげる…よろしくね…」と、ミモロは「リニアを京都に…」と書かれたステッカーを渡されました。「は、はい…」と受け取るミモロ。「あれ、ミモロちゃんってうちの近所に住んでるんだねー」と岡野理事長。「お散歩のとき、見かけたら、声かけてくださいね」とご挨拶…。
山鉾巡行は、17日。後祭の復活で、24日にも山鉾巡行が見られることに…。「夏休みだから子供たちも大勢見に来れるねー」とミモロ。後祭は、先祭のようにたくさんの食べ物の屋台がでることはないそう。「昔ながらの静かな祭りを取り戻すんですよ」と吉田理事長。
平安時代、都で流行した疫病を鎮めるための儀式を起源とする祇園祭。京都の町と人々の安らかな暮らしを願う祭りです。後祭は、そんな京都に暮らす人たちの変わらぬ思いがよくわかるものに…。20日ごろに始まる鉾立て。四条町に姿をみせる大船鉾を見に、ぜひ京都へ。ミモロも2日間ほど粽授与のボランティとして、四条町にいます。
「粽買いに来てね~」
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