夏のある日、ミモロは、用事があって、大阪を訪れました。
「あんまり大阪って来たことない…」と、京都から1時間足らずで行ける場所なのに、なかなか来れないミモロです。
「やっぱり大阪って、道が広いね~それになんかおしゃれ~」有名ブランド店などが出店していることでも有名な御堂筋をトコトコ散策していると…「わ!なんかりっぱな神社がある~」と、その方向へ。
そこは「難波神社」
コンクリート造りの社殿…そして周囲は、高層ビル「なんか大都会、大阪らしい神社だね~」
どんなに町中にあっても、京都の神社は、こんな高層ビルには囲まれていませんから…。
さて、建物は、新しい感じの神社ですが、その歴史は、古く、また、さまざまな時代の波をもろにかぶってきた神社です。
ご祭神は、仁徳天皇、配しに素戔嗚尊をお祀りしています。
「仁徳天皇陵って、大阪の堺にあるんだよね~」大阪は、仁徳天皇が都を置かれ、大開拓した町で、古代史の舞台になっているのです。
ここ「難波神社」の歴史を神社でいただいた案内から見てゆくと…西暦406年に第18代の反正天皇(はんぜいてんのう)が、河内に都を移されたときに、お父様の第16代の仁徳天皇を偲んで社を建てたのが始まりといわれているそう。
それから、平安時代の943年に、第61代の朱雀天皇の命で、現在の天王寺区に移転。「え~この間500年の歴史が飛んでる~」とミモロ。
1071年、第71代の後三条天皇が住吉を訪れた折、夢のお告げで、素戔嗚尊をお祀りすることに…。
現在の地に移ったのは、豊臣秀吉が大坂城を建てた時代で、それまで広大な境内を有する大阪屈指の規模を誇っていたとか。秀吉から立ち退き料を当時としては破格の2千石を受け、ここへ。
そこでも四方に鳥居を構えるりっぱな神社だったとか。
当時、大坂城を建てるために、その建設予定地の住人の1万7千戸が、強制的に立ち退きを迫られ、船場へと移ったことで、船場は、大阪最大の繁華街になったのだそう。その中心にあったのが、実はこの神社なのだと…。
さて、秀吉に厚遇された神社は、大阪夏の陣で豊臣家が滅びると、家康によって、境内の9割を没収されることに。「え~つまり1割しか残んなかったんだ…でも、残れたからよかったよね~」とミモロ。
さらに度重なる火災などにより、社殿を喪失、その再建のために、境内を売却してその費用を捻出。そのため、境内はどんどん小さくなったのだとか。そして太平洋戦争で、大阪は大空襲に見舞われ、社殿は、全焼。昭和49年に再建されて現在に至ります。
「でも、ここ難波じゃないよ~」とミモロ。現在の住所は、中央区博労町、御堂筋沿いですが、かつて難波にあったことから、その名前が。
ご神紋は、アヤメ。この地に移転した時、御旅所のある堀江に住む老女が、毎年、そこに植わる花菖蒲をお供えしたというアヤメに因んだお話しも残っています。現在、境内の片隅に、小さな菖蒲園がありました。
「わ~こっちは大きいよ~」とミモロが見上げるのは、境内に聳えるご神木の楠です。
京都の「青蓮院」などの楠に比べたら小さいものですが、樹齢は、400年以上で、市内最古の楠であり、大阪市指定の保存木第1号です。
この木が他の地の楠より小さいけれど、スゴイのは、なんとあの大阪大空襲で火をかぶりながらも、焼け野原になった大阪の町の復興を祈るように、自ら蘇った逞しい木だということ。その蘇りのパワーから、多くの人に「力を授ける木」ともいわれ、それに触れながら、祈る人も多いそう。
ミモロもしっかり抱き着いてきました。「今なら、復興の楠って呼ばれるね」
「絵馬がある」と社務所へ。学業成就、商売繁盛などいろいろなお願いごとに対応する絵馬がいろいろ。
というのは、この境内には、摂社にあたる 大阪商人の守り神の「博労稲荷神社」、末社の「金毘羅神社」などもあるのです。
「え?ここが文楽発祥の地なんだって~」
淡路島から大阪にきた植村文楽軒。その二代目が、この神社の東門内に小屋を設け、大成功したことにより、文楽発祥の地に。
明治になり、文楽座は、松島遊郭に移り、さらにそこから御霊神社へと移転します。
「きっと大阪の神社やお寺って、いろいろなお話しがあるんだろうなぁ~」と、ミモロは、大阪の神社仏閣に興味を抱いたよう。
もっと大阪にもお出かけしなくちゃね~「うん、まだミモロ、大坂城も、通天閣も行ったことない~。きっと外国人観光客の方が詳しいよ」と不満そう…これから、京都以外にも、もっとおでかけしましょうね…。
*「難波神社」の詳しい情報は、ホームページで
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