鴨川にかかる三条大橋は、東海道から、京都の町に入る橋。その河原は、今は、観光客でにぎわい、またカップルのデートスポットになっている場所。でも、昔から、そこには悲しい歴史があるのです。
多くの人たちが行き交う場所は、処刑された人の首を晒して、時の権力者の力を見せつける場所でもありました。
その橋の近くにある「瑞泉寺」は、木屋町の賑わいが始まるエリアにあるお寺。
賑やかな場所になんでお寺?と思う人もいるでしょう…
このお寺は、豊臣秀吉の甥である秀次の一族の御霊を祀るために慶長16年(1611)に、高瀬川の開削工事を行っていた豪商、角倉了以が、その悲しい歴史をいたみ、建立したお寺です。
「静かなお寺だね~」
よく手入れされた木が、みずみずしい境内。
ミモロは、まず門のそばにある展示スペースを訪れました。
「資料頂こう…」お寺の歴史が書かれた資料に目を通します。
時は、文禄4年(1595)8月2日の昼下がり、三条河原に引き出されたのは、時の関白 豊臣秀次の側室や子供達39人。すでに、その2週間前、秀次は、幽閉先の高野山青厳寺で切腹され、その残された一族です。
三条大橋の上には、その姿を一目見ようと群がる人々。美しい側室や幼い子供たちは、人々の目の前で、一人ずつ、処刑され、そばに掘られた穴に、投げ込まれていきました。あまりに無惨な景色…それを命じたのは、おじである秀吉でした。
かつては、聡明な秀次を寵愛した秀吉。長らく世継ぎに恵まれなかった秀吉にとって、秀次は頼もしい後継者でもあったのです。しかし、淀君に秀頼が誕生したことから、疎んじられてゆく秀次。ついには、謀反の罪を着せられてしまいます。
そして、秀次の一族は、すべて根絶やしにされる悲劇が襲ったのです。
側室や子供たちが、処刑され、投げ込まれた穴には、塚を作られ、その上には、秀次の首を納めた石びつが置かれ、三条河原を通る人たちの見せしめにしたのだそう。その塚は、洪水などで荒廃し、16年後に、その場所にできたのが、現在の「瑞泉寺」の本堂なのだそう。
「秀次さんって、近江八幡の町づくりをしたり、すごく賢い人だよね~。人々からの人望も厚かったんでしょ・・・」とミモロ。秀次のイメージは、神経質で暴力的に描かれる場合もありますが、賢いがゆえに、次第に信頼する太閤秀吉から嫌われてゆくのが耐えられなかったのかもしれません。
境内の奥まった場所に、ひっそりと墓所があります。
静かにお詣りします。
境内には、御霊を祀る地蔵堂もあり、その中には、御霊を見守るお地蔵様がおいでになります。
そのそばにも、歴史を語る展示が…
もし、秀吉が、秀次を嫡子の幼い秀頼の後見人にしていれば、豊臣家は、滅亡することは免れたかも…。
「今は、こんなに賑やかで、楽しいエリアなのに・・・そんな悲しいお話しがあるなんて…」と、神妙な面持ちのミモロでした。
門があいているときは、いつでも参拝ができるお寺です。
「かわいそうに~」と、静かに手を合わせるミモロです。
*「瑞泉寺」三条大橋のたもと。門は、木屋町通に面しています。詳しくは、ホームページで
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