大原の「魚山 大原寺 勝林院」の隣りにある「宝泉院」は、住職の坊として現在に至ります。
「ここも、拝観しよう~」とミモロは、お友達と別れ、ひとり向かいました。


門から中に入って、「わ~」というと足を止めました。
ミモロの目の前にあるのは、傘のような形をした松です。

これは「五葉の松」という樹齢700年を超えた大きな松。

受付までの石畳の脇にも、さりげなく庭が。


建物の玄関には、梵字が一文字。「あれ、『ア』の文字かな?」

受付で800円を納めます。「ここでもお抹茶とお菓子でるんだ~」と中へ。
「わ~やっぱりお庭素敵~」


客殿に面したお庭は、「額縁庭園」と呼ばれ、柱の間から眺めるもの。

それを眺めながら、お茶とお菓子を頂戴します。

なんとも静かな時間・・・「ここで、こんな時間が、待っていたなんて~」と、お庭を眺めながらしみじみ思うミモロです。
「昔は、ここで、声明がいつも響いていたのかな~」と、声明の聖地、大原の魅力をかみしめます。
「これなんだろ?」と縁に差し込まれたように立つ竹を覗きます。

「あ、ホント、なんか音が聞こえる…。水が落ちるみたいな音だよ~」と竹に耳を当てて、じっと音を聞いています。

祀られた仏様にも参拝し、建物のまわりの廊下を進みます。
頂いたお寺のパンフレットを見ると…「血天井だって…なんだろ、ちょっと怖い…」と。
係の方に「あの~血天井ってなんですか?」と伺うと、ミモロを伴い、再びお庭の前の廊下へ。
「ここの天井よく見てください…」と細い竹で、天井のシミをさします。

「ここがわかりやすいかな?」と示された先には、足跡が…。

この「血天井」は、慶長5年、関ケ原の戦いの前に、豊臣方の大軍と戦い、伏見城で自刃した徳川方の鳥居元忠以下、数百名の人たちの霊を弔うために、ここに祀られているのです。
「あのシミって、血の跡なんだ~ブルブル」裸足で血の上を歩いたのでしょうか、5本の指も見えます。
「こっちは、お顔ですね~。横にたおれたでしょうか、ここが鼻・・・」と。「う~そうなんだ~」
「この天井にルミノール検査すると、もっといろいろ浮き上がるのかな~」とミモロ。
最近のサスペンスドラマなどの影響でしょう。確かに、もしルミノール検査をすれば、目に見えないいろいろなものが浮かび上がり、また血液のDNA検査などをすれば、自刃した武将たちの年齢などもわかるかもしれません。
でも、ここでは、無念な思いを抱きながら命を落とした武将たちの霊を弔うことが目的。
「そうだよね~」といいながら、天井に向かい、手を合わせるミモロです。
「宝泉院」」の拝観を終えたミモロは、かつて「実光院」があり、大正期に整備された「大原陵」へ。


さすが天皇の御陵は、どこも整然としています。
「大原陵」は、後鳥羽天皇と順徳天皇という父と子の御陵です。

さすがほとんど落ち葉がない白砂。「よほどお掃除してるんだ~」と感心しきり。


「さすが宮内庁・・・」そばには、管理事務所があり、そこの職員の方が、清められているのでしょう。
白砂の上に描かれた文様も、シンプルで本当に美しいもの。「日本の美を感じる~」とミモロ。
さて、後鳥羽天皇は、平安時代から鎌倉時代に在位した第82代の天皇。壇ノ浦で入水した第81代の安徳天皇の異母弟に当たります。
安徳天皇の母、建礼門院は、大原の寂光院で一門の霊を弔い、やはり大原の里に御陵があります。
「このころの時代ってすごく複雑なんだよね~」とミモロ
後鳥羽天皇と順徳天皇は、ともに鎌倉幕府討幕を目指す「承久の乱」で流罪になり、隠岐と佐渡に流され、生きて、都に戻ることなく、その地で崩御されます。
18年間、隠岐で過ごし崩御された、その後、京都の大原に遺骨の一部が大原にあった法華寺に納められ、それから3年後、佐渡に流された息子、順徳天皇も、かの地で崩御。やはり遺骨が、父の眠る大原に弔われます。
「え~やっと親子一緒になれたんだ~」日本海の海続きの島で過ごしたお二人。さぞや都に帰りたかったことでしょう。
「大原陵」が整備されたのは、明治になってから。「そのとき、実光院が移転させられたんだ~」とミモロ。
「う~それで、やっと御陵で落ち着かれたのかもね~」と、悲劇のお二人を思います。
大原は、都からかなり離れた山里。「大原陵」は、市内に点在する天皇御陵の中でも、ひときわ離れた場所にあります。
長い間、そこにひっそりと祀られていたのです。
さぁ、ミモロ、そろそろ帰りますよ~
「は~い、お腹空いた~」とミモロ。
冷えてきた体を「きつねうどん」で温めます。

冬が迫る京都…山里では、漬物づくりが盛んに…。


*「宝泉院」の詳しい情報はホームページで

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