「伏見稲荷大社」から徒歩15分ほどの山沿いの住宅地にある「石峰寺(せきほうじ)」。
赤い唐門が参拝者を迎えます。
ここは、宝永年間(1704~1711)に、隠元禅師の孫弟子に当たる、黄檗宗第6世、千呆(せんがい)禅師により創建された禅道場。
建物には、黄檗宗らしい中国様式の飾りなどが…。
江戸時代に始まった黄檗宗は、臨済宗・曹洞宗と共に、日本三禅宗のひとつで、本山は、隠元禅師が開いた宇治にある萬福寺です。
「あ、黄檗宗って、江戸時代に始まったんだ~」とミモロ。宇治の萬福寺にも参拝しているのに、すっかり忘れていました。
ここで禅宗の歴史をおさらいすると…。
臨済宗は、鎌倉時代に、宋に渡り学んだ栄西(1141年生まれ)を開祖。「比叡山延暦寺でも修行したんだよね~」とミモロ。
そう、日本にお茶をもたらしたことでも知られます。だから禅宗のお寺では、茶道が盛んで、禅と茶道は深い結びつきがあるのです。
曹洞宗は、道元(1200年生まれ)を開祖に。道元も、比叡山延暦寺で出家。後に栄西を尊敬し、建仁寺でも修行。それから南宋へ渡り、帰国後、曹洞宗を開きます。
黄檗宗は、中国福建省で1592年に生まれた隠元を開祖とします。当初は、臨済宗の系統でしたが、後に黄檗宗と称することに。隠元禅師は臨済宗の僧ですが、日本に渡った当時、すでに臨済宗は、日本独自の文化の色彩が濃く、本場、中国の様式を守る隠元のスタイルと異なることから、新たな宗派を立ち上げたということでしょうか。
ちなみに煎茶を日本にもたらしたのは、隠元で、煎茶道の開祖といわれます。
つまり禅宗の歴史を整理すると、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の順番に生まれたことになります。
「そうだったんだ~」と納得のミモロ。
でも、もともと中国で臨済宗の僧だった隠元。臨済宗と黄檗宗は、「臨黄ネット」という同じホームページに掲載されていることから、その関係が読み取れます。
中国風の文様をモチーフにした本堂。規模は大きくはありませんが、凛とした空気が漂います。
ご本尊は、創建から薬師如来を祀っていましたが、昭和54年放火により焼失し、昭和60年の本堂再建以来、釈迦如来が鎮座されています。
「ここ伊藤若冲と関係が深いお寺でしょ」とミモロ。そう、そっちのお話しなくては…。
境内の奥の山へ入る門を過ぎると、山のいたるところに「五百羅漢」の石像が並びます。
ここから先は、近年撮影禁止になったため、パンフレットの写真で…
この「五百羅漢」は、今や大人気の江戸の絵師、伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもの。釈迦の誕生から涅槃までの生涯を表現する石像と共に、いろいろな菩薩や羅漢の石像が、山の竹林の中に配されています。
「すごくおおらかなお顔・・・なんて表情豊かなんだろ…」とミモロ。当初は1000体以上の石像があったそう。現在は、500数十体が残っています。
さて、京都の錦小路の青物商の長男として生まれた伊藤若冲。40歳の時、家督を弟に譲り隠居。それから本格的に絵を描き始めます。つまりリタイヤしてから絵師に変身。「今の定年から第2の人生を送る人と同じだったんだ~」とミモロ。
商売もそこそこに絵を描いていたのでは…というイメージがある若冲ですが、現役時代は、バリバリ仕事をしていたことが資料などからわかっているそう。「道楽者じゃなかったんだ~」とミモロ。
若冲が、若いころから望んでいた絵画に没頭し、多くの作品を残せたのは、85歳という当時では珍しいほどの長寿だったから。
天明8年、若冲72歳の時、天明の大火が京の都を焼き尽くし、自宅を焼失。
この「天明の大火」は、京都最大の大火といわれ、天明8年正月30日の夜、鴨川東の現在、四条通の南にある団栗橋のそばの民家から出火。折からの強風により、火は、対岸の西、京都の町の中心部へと拡大。京都の町の8割を焼き尽くし、6万5000世帯が家を失い、御所や二条城も焼けてしまいます。町にあった神社仏閣も焼失、だから現在ある建物は、江戸時代以降のものが多いのです。この大火で京都の産業が壊滅的な被害を受けます。そのため、それまで京都だけだった技術が地方にも伝えられることに。焼野原となった京の町。
その被災者のひとりに若冲もいたのでした。
すべてを失った若冲は、「五百羅漢」の石像を作った縁からか、その後、寛永12年(1800)に85歳の生涯を終えるまでの約10年間をここ「石峰寺」の庵で、1枚の絵を描いては、米1斗と交換する生活を送ります。
若冲のお墓は、「五百羅漢」の石像が並ぶ山のすぐそばに。ひっそりと立てられています。墓石には、「斗米菴若冲居士墓」と刻まれています。
「え~今のように若冲ブームが訪れるなんて、本人思ってなかったよね~。ひっそり貧しい暮らしの中で死ぬなんてかわいそう・・・」とミモロ。
そう、後世にその価値が認められる芸術家のひとりだったのです。
もちろん貧しい暮らしで、晩年すごしたことは不幸かもしれませんが、若冲自身、禅の教えに傾倒していた人。
相国寺を始め、さまざまな禅寺にその作品を寄贈していることからもわかります。ですから、暮らしは貧しかったでしょうが、その中で、心の豊かさは決して失わなかったのでは…と思いたいもの。
そんな若冲の最後を優しく見守ったのは、自ら手掛けた、ここの「五百羅漢」の1,000体余りの大勢の石像たち。
その姿に、若冲自身、癒されていたのではないでしょうか。
華やかにもてはやされる、現在の若冲。その晩年、すべてを失い絵筆ひとつで「生」をつないだ姿が、このお寺にはあるのです。
*「石峰寺」京都市伏見区深草石峰寺山町26 075-641-0792 拝観時間:3月~9月 9:00~17:00 10月~2月 9:00~16:00 拝観料300円。交通:京阪「深草駅」から徒歩10分。「伏見稲荷大社」から徒歩15分。駐車場もあります。(住宅地の中の狭い道を進むので、大きな車は運転が大変)
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