奉和觀佳人蹋歌御製 小野峯守
春女春粧 言も及ばず、
無量無数 華庭に満つ。
心嬌(うるは)しく胆(きも)小くして 蹋歩(たうほ)を羞(は)じらひ、
声の裏(うち)微微(かす)かにして 千齢(せんれい)を寿ぐ。
(略)
(凌雲集~「王朝漢詩選」岩波文庫)
今年は男踏歌あり。内裏より朱雀院に参りて、次にこの院に参る。道のほど遠くなどして、夜明け方になりにけり。月の曇りなく澄みまさりて、薄雪すこし降れる庭のえならぬに、殿上人なども、物の上手多かるころほひにて、笛の音もいとおもしろう吹き立てて、この御前はことに心づかひしたり。(略)
影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降りつむ。松風木高く吹きおろし、ものすさまじくもありぬべきほどに、青色のなえばめるに、白襲の色あひ、何の飾りかは見ゆる。
插頭の綿は、何の匂ひもなきものなれど、所からにやおもしろく、心ゆき、命延ぶるほどなり。(略)
ほのぼのと明けゆくに、雪やや散りて、そぞろ寒きに、「竹河」謡ひて、かよれる姿、なつかしき声々の、絵にも描きとどめがたからむこそ口惜しけれ。
御方々、いづれもいづれも劣らぬ袖口ども、こぼれ出でたるこちたさ、物の色あひなども、曙の空に、春の錦たち出でにける霞のうちかと見えわたさる。あやしく心のうちゆく見物にぞありける。
さるは、高巾子の世離れたるさま、寿詞の乱りがはしき、をこめきたることを、ことことしくとりなしたる、なかなか何ばかりのおもしろかるべき拍子も聞こえぬものを。例の、綿かづ きわたりてまかでぬ。
(源氏物語・初音~バージニア大学HPより)
踏歌は、方々に里人参り、さまことに、けににぎははしき見物なれば、誰も誰もきよらを尽くし、袖口の重なり、こちたくめでたくととのへたまふ。春宮の女御も、いとはなやかにもてなしたまひて、宮は、まだ若くおはしませど、すべていと今めかし。
御前、中宮の御方、朱雀院とに参りて、夜いたう更けにければ、六条の院には、このたびは所狭しとはぶきたまふ。朱雀院より帰り参りて、春宮の御方々めぐるほどに、夜明けぬ。
(略)
皆同じごと、かづ けわたす綿のさまも、匂ひ香ことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅なりけれど、けはひにぎははしく、人々心懸想しそして、限りある御饗などのことどもも、したるさま、ことに用意ありてなむ、大将殿せさせたまへりける。
(源氏物語・真木柱~バージニア大学HPより)
その年かへりて、男踏歌せられけり。殿上の若人どもの中に、物の上手多かるころほひなり。その中にも、すぐれたるを選らせたまひて、この四位の侍従、右の歌頭なり。かの蔵人少将、楽人の数のうちにありけり。
十四日の月のはなやかに曇りなきに、御前より出でて、冷泉院に参る。(略)
匂ひもなく見苦しき綿花も、かざす人がらに見分かれて、様も声も、いとをかしくぞありける。「竹河」謡ひて、御階のもとに踏みよるほど、過ぎにし夜のはかなかりし遊びも思ひ出でられければ、ひがこともしつべくて涙ぐみけり。
后の宮の御方に参れば、上もそなたに渡らせたまひて御覧ず。月は、夜深くなるままに、昼よりもはしたなう澄み上りて、いかに見たまふらむとのみおぼゆれば、踏む空もなうただよひありきて、盃も、さして一人をのみとがめらるるは、面目なくなむ。
(源氏物語・竹河~バージニア大学HPより)
養和二年正月一日、改の年の始の御祝なれ共、諒闇(りやうあん)に依て節会もなし。十六日(じふろくにち)には、踏歌節会も不被行、当代の御忌月なれば也。
抑踏歌節会と申は、人王三十九代の御門、天智天皇(てんわう)の御時より被始置たる事也。(略)常陸国より白雉一羽、一尺二寸(にすん)の角生たる白馬一匹奉る。鎌足大臣是を捧て殿上に参る。彼送文云、雉色白者、表皇沢之潔、馬角長者、治上寿之世とぞ書たりける。彼雉を其角に居て、大臣乗て南庭に遊。聖代の奇物、何事か是に如かんや。天子御感有て鎌足を賞し、金銀色々の賞多かりけり。此事正月十六日(じふろくにち)の午時の始也ければ、其例として年々の正月十六日(じふろくにち)、雲の上人参て、馬に乗て引出物を給る事あり。溶々たる池を掘て水を湛へ、田々たる草を植て雉を飼給(たま)ひき。四季に花さく桜を植て駒を遊ばしめ給しより、是を志賀の花園とは申也。踏歌節会と名て、代々の御門いまだ怠り給はず。哀哉三十(さんじふ)余代の節会なり、数百年の吉例也、何んぞ今年始て断絶するや。但平家の一門の過分なりつるしわざなり。
(源平盛衰記~バージニア大学HPより)
正応六年、内大臣にて踏歌節会の内弁つとめ侍て、程なく大臣辞申て後、春月を読侍ける 太政大臣
今はとて雲ゐを出しいさよひのむ月の月の影そ忘ぬ
(続千載和歌集~国文学研究資料館HPより)