そのころ五月廿餘日ばかりより四十五日のいみたがへむとてあがたありきのところにわたりたるに、宮たゞかきをへだてたるところにわたり 給ひてあるに、みな月ばかりかけてあめいたうふりたるにたれもふりこめられたるなるべし、こなたにはあやしきところなればもりぬるゝさわぎをするにかくのたまへるぞいとゞものぐるほしき。
つれづれのながめのうちにそゝぐらんことのすぢこそをかしかりけれ
御かへり
いづこにもながめのそゝぐころなればよにふる人はのどけからじを
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
そのまへのさみだれの廿餘日のほどものいみもありながき精進もはじめたる人山でらにこもれり。「あめいたくふりてながむるにいとあやしく心ぼそきところになん」などもあるべし。かへりごとに
ときしもあれかくさみだれのおとまさりをちかた人のひをもこそふれ
と物したるかへし
ましみづのましてほどふる物ならばおなじぬまにぞおりもたちなむ
といふほどにうるふさ月にもなりぬ。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
斎院には、いかめしき御勢ひに、引き続き出で給ひし後(のち)、さこそはめでたしと言ひながらも、何となう心細さのみ数知らず。五月雨しげき御袖の上は、いとど晴れ間なう、もの思ひなれば、時鳥の夜深き声ばかりを友とこそ、憂き世に住みわび給へる御気色の心苦しさを、かつ、候ふ人々も、涙の隙(ひま)なうてのみ明かし暮らすに、(略)
「五月雨の晴れ間も知らぬ身の憂さは嘆く涙に水嵩(みかさ)まさりて
人をば何とかは」とて、袖に顔を押し当てて泣き給へるに、まことに雲間も見えず降りそふ五月雨の空、ものむつかしけれど、二十日あまりの明け方なれば、たをたをとなつかしげなる御姿、髪ざし髪のかかりなど、さは言へど、なべてならずうつくしげに見え給ふも、げにおろかならずのみ思ひきこえ給ふ。
「契りのみいつも有明のつきせねば思ひな入れそ曇る夜の空
など言ひ知らぬ」と、うち嘆きて出で給ひぬるなごりも、人やりならずものかなしうながめられ給ひつつ、近き橘の、香りなつかしう吹き来る追ひ風も、これや我が身のつひのとまりならんと心細きに、時鳥の忍び音あらはれて、言(こと)語らふもあはれなり。
橘に忘れず偲べ時鳥我は昔の袖の在り香を
(いはでしのぶ~「中世王朝物語全集4」笠間書院)
五月の晦日に山里にまかりて立ち歸りにけるを時鳥もすげなく聞き捨てゝ歸りし事など人の申し遣しける返事に
郭公なごりあらせて歸りしが聞すつるにもなりにけるかな
(山家集~バージニア大学HPより)
五月の廿日あまり、在明の月くまなくて、ことにおもしろく侍りしに、御ちよくろにて御連歌ありしこそ、いとやさしく侍りし。かた家・ためつぐばかりにて、人數もすくなかりしかば、いどまさりし程に、「此ついでにこうたうの内侍のびはをきかばや。」と、仰せごとありしかども、月もいりがたちかくなりて、みなかへり侍りにし。
(弁内侍日記~群書類從)
寛治五年五月廿七日、二條大路にて、はなちがひしける馬を取て、移(うつし)を置て、競馬(くらべうま)六番ありけり。殿上人ぞつかうまつりける。東の陣の前より、西の中門にむけてぞ馳(はせ)ける。主上太鼓を打(うた)せ給ける、たはぶれ事なれども、めづらしかりける事也。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
正暦二年五月廿八日、摂政殿、右近馬場にて競馬十番を御覧じけり。山井大納言・儀同三司、共に中納言にておはしける、左右にわけて、公卿おほくまゐられけり。一番左将曹尾張兼時、右将曹同敦行つかうまつりけるが、兼時が轡たびたびぬけたりけれども、おつる事はなかりけり。さりながらも、つひに敦行勝にける。兼時、敦行にむかひて、「負てはいづかたへ行ぞ」といひたりけり。人々其詞を感じて、纏頭しけるとなむ。いまだ、競馬に負ざりける物にて、かくいひける、いと興あるいひやうなるべし。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
嘉祥二年五月戊寅(二十五日) 天皇が神泉苑に行幸(みゆき)した。公卿が神泉苑に近い美福門院に集まり、終日、宴を楽しんだ。大学博士・文章生らを召して、「美福門に陪(ばい)し、そこで銷暑(しょうしょ)することを得」の題で詩を賦させた。本日、詩を献上した者は十四人であった。
(続日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛和二年五月)卅日丁酉。天皇出御南殿。有打毬之興。番長以上各十人。左右近衛。左右兵衛官人并廿人為二番。皆著狛冠。騎馬立南階前。左勝。奏音楽。此事希代之勝事也。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)
長保五年五月二十七日、丙辰。
左府の許に参った。宇治への御供に供奉した。左右衛門督・権中納言(藤原隆家)・弼宰相・宰相中将(俊賢)・殿上人、及び諸大夫で作文(さくもん)・和歌・管絃に堪能な者以外の人はいなかった。作文の序は弼相公(有国)、題は晴れた後、山川が清い」と。探韻を行なった。以言が献上した。
二十八日、丁巳。
午剋、作文を読んだ。舟に乗って上洛した。夜に入って、家に着いた。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(治承二年五月)卅日。内裏有作文。(題云詩境多脩竹。)御製落句云。豈忘一字勝金徳。可愍白頭把巻師。御侍読二人永範。俊経等卿。不堪感涙。下南庭拝舞。侍座者驚目。(略)
(百錬抄~「新訂増補 国史大系11」)
(正治元年五月)廿六日。夜より甚雨。終日注ぐが如し。河水、又溢(あふ)ると云々。堀河大路、偏へに海の如し。所々の橋、悉く流失すと云々。七条以北に出で、粗々之を見る。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(嘉禄元年五月)廿九日(晦)。陽気晴明。雲膚往来す。昨今、暑熱焼くが如し。但し、南風頻りに扇(あふ)る。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(嘉禄二年五月)廿六日。天晴る。(略)冷泉より寒氷を送る。今年初めて之を見る。予本より之を好む。良薬の如し。昨今の暑熱已に盛夏の如し。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
二十九日 丙申 御留守ノ程タリト雖モ、隼人ノ入道、紀内所行景、富部五郎、源性、義印等ヲ招請シ、鞠ノ会有リ。
(吾妻鏡【建仁三年(1)五月二十九日】条~国文学研究資料館HPより)
比は五月の廿日余の事也。卿相雲客列参あり、重衡卿も出仕せんとて出立給ひけるが、卯花に郭公書たる扇紙を取出て、きと張て進よとて守長にたぶ、守長仰奉て、急張ける程に、分廻をあし様に充て、郭公の中を切、僅(わづか)に尾と羽さき計を残したり。■(あやまち)しぬと思へ共、可取替扇もなければ、さながら是を進する。重衡卿角共知ず出仕し給て、御前にて披て仕給けるを、一院叡覧ありて、重衡の扇を被召けり。三位中将始て是を見給つゝ、畏てぞ候はれける。御定再三に成ければ、御前に是を閣れたり。一院ひらき御覧じて、無念にも名鳥に疵をば被付たる者哉、何者が所為にて有ぞとて打咲はせ給ければ、当座の公卿達も、誠にをかしき事に思合れたり。三位中将も、苦々しく恥恐れ給る体也。退出の後守長を召て、深く勘当し給へり。守長大に歎恐て一首を書進す。
五月やみくらはし山の郭公姿を人にみするものかは
と、三位中将此歌を捧て御前に参、しかじかと奏聞し給たりければ、君、さては守長が此歌よまんとて、態との所為にやと有叡感。
(源平盛衰記~バージニア大学HPより)
五月廿日余(あまり)の事なるに、折知がほに敦公(ほととぎす)の一声二声(ふたこゑ)、雲井に名乗て通けるを、関白殿聞召(きこしめし)て、
敦公名をば雲井にあぐるかなと、仰せければ、
弓はり月のいるにまかせて
と、頼政申たり。
< 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふにと、異本也。>
実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。
(源平盛衰記~バージニア大学HPより)