monoろぐ

古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

対人距離/パーソナルスペース

2016年05月17日 | 雑日記

 その人と並んで歩くと、真っ直ぐではなく斜めに歩いてしまう同僚がいます。
 その同僚とは、自分としては或る程度しか親しくないという認識なので、腕とかカバンが触れ合わないように、一定の距離をあけて歩きたいのに、相手は必ずすり寄ってきて、私の腕やカバンなどに接触してくるのです。私は他人よりも“自分の領域(対人距離/パーソナルスペース)”の広い人間なのか、必要以上に他人がそばに近寄ると、反射的に距離を取ってしまうので、この人と並んで歩くと、真っ直ぐ進まずに、斜めに歩いていくことになります。
 でも本人はまったく自覚していないようです。(むしろ反対に、私に対して“親しみのない冷たい人”という感想を持ってるかもしれません。)


古典の季節表現 夏 照射(ともし)

2016年05月13日 | 日本古典文学-夏

照射を読侍ける 藤原義孝
五月やみそこともしらぬともしすとは山かすそにあかしつる哉
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

さつきやみあまつほしだにいでぬよはともしのみこそ山にみえけれ
(長元八年五月十六日 関白左大臣頼通歌合~「平安朝歌合大成 二」)

さつきやまゆすゑふりたてともすひにしかやあやなくめをあはすらむ
(久安百首~日文研HPより)

かひなしやいくよもえてもさをしかにあはぬほくしのむなしけふりは
(慶運法師集~日文研HPより)

大和國に龍門といふ所に聖ありけり。すみける所を名にて龍門の聖とぞいひける。そのひじりのしたしくしりたりけるさと人の、あけくれしゝをころしけるに、ともしといふことをしける比、いみじうくらかりける夜照射に出にけり。鹿をもとめありく程に目をあはせたりければ、「しゝありけり。」とておしまはし\/するに、たしかに目をあはせたり。矢比にまはしよりてほぐし(*火串)に引かけて、矢をはげていんとて弓ふりたてみるに、(略)
(宇治拾遺物語~國史大系17)


古典の季節表現 夏 五月中旬

2016年05月12日 | 日本古典文学-夏

同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首
我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け
 右一首丹比國人真人壽左大臣歌
賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに
 右一首左大臣和歌
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ
 右一首左大臣寄味狭藍花詠也
(万葉集~バージニア大学HPより)

わか蒔し麻苧の種をけふみれは千えにわかれて陰そ凉しき
(曾禰好忠集~群書類従15)

このごろ雲のたゝずまひしづごゝろなくて、ともすれば田子の裳裾おもひやらるゝ。ほとゝぎすの声もきかず、ものおもはしき人は寝(い)こそ寝られざなれ、あやしう心よう寝らるゝけなるべし。これもかれも「一夜(よ)聞きき」、「このあか月にも鳴きつる」と言ふを、人しもこそあれ、我しもまだしと言はんも、いとはづかしければ、物言はで心のうちにおぼゆるやう、
我ぞげにとけね寝(ぬ)らめやほとゝぎすもの思ひまさる声となるらん
とぞ、しのびて言はれける。
(蜻蛉日記~岩波文庫)

やうやう更けゆく夜半(よは)の気色に、雨雲払ふ風、冷やかにて、うち薫る花橘のにほひも、いとなつかしう、待ちとり音(おと)なふ御前の呉竹の下葉を過ぐる遣水に、わづかに木の間漏り来たる、伏待(ふしまち)の月影宿したるほど、とり集め艶(えん)なるに、御かたはらなる琵琶を、客人(まらうど)の君とり給ひて、忍びやかにうち調べ給へる、世に知らずなつかしうあはれなる。え忍び給はず、かやうのこと、つきなうのみなり果てにけりや」とはのたまふものから、盤渉調の、半(なか)らばかり、笛を吹き鳴らし給へるおもしろさ、たとふべき方なけれど、げにも、(略)すごうもの悲しき御遊びにて、暁近うなりにけれど、尽きせぬ御仲の睦言は、ただ同じかげにて、月もやや影弱り、ほのぼのと明けゆく空に、ほととぎす二声ばかり名告(なの)りて過ぐ。
(いはでしのぶ~「中世王朝物語全集4」笠間書院)

 五月雨は、いとど眺めくらしたまふより他のことなく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前にさぶらひたまふ。
 花橘の、月影にいときはやかに見ゆる薫りも、追風なつかしければ、千代を馴らせる声もせなむ、と待たるるほどに、にはかに立ち出づる村雲のけしき、いとあやにくにて、いとおどろおどろしう降り来る雨に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、空暗き心地するに、「窓を打つ声」など、めづらしからぬ古言を、うち誦じたまへるも、折からにや、妹が垣根におとなはせまほしき御声なり。
(源氏物語・幻~バージニア大学HPより)

 麗景殿と聞こえしは、宮たちもおはせず、院隠れさせたまひて後、いよいよあはれなる御ありさまを、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過ぐしたまふなるべし。
 御おとうとの三の君、内裏わたりにてはかなうほのめきたまひしなごりの、例の御心なれば、さすがに忘れも果てたまはず、わざとももてなしたまはぬに、人の御心をのみ尽くし果てたまふべかめるをも、このごろ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思ひ出でたまふには、忍びがたくて、五月雨の空めづらしく晴れたる雲間に渡りたまふ。
 何ばかりの御よそひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、よく鳴る琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。
 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこしさし出でて見入れたまへば、大きなる桂の木の追ひ風に、祭のころ思し出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、「ただ一目見たまひし宿りなり」と見たまふ。ただならず、「ほど経にける、おぼめかしくや」と、つつましけれど、過ぎがてにやすらひたまふ、折しも、ほととぎす鳴きて渡る。(略)
 二十日の月さし出づるほどに、いとど木高き影ども木暗く見えわたりて、近き橘の薫りなつかしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。
 「すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましうなつかしき方には思したりしものを」
 など、思ひ出できこえたまふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣きたまふ。
 ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。「慕ひ来にけるよ」と、思さるるほども、艶なりかし。「いかに知りてか」など、忍びやかにうち誦んじたまふ。
  「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
 いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、まして、つれづれも紛れなく思さるらむ」
 と聞こえたまふに、いとさらなる世なれど、ものをいとあはれに思し続けたる御けしきの浅からぬも、人の御さまからにや、多くあはれぞ添ひにける。
 「人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ」
 とばかりのたまへる、「さはいへど、人にはいとことなりけり」と、思し比べらる。
(源氏物語・花散里~バージニア大学HPより)

 五月廿日の月いと明(あ)かう、こゝかしこの木の下こぐらう、ゆふまぐれならねど、ものおそろしきまで見えわたるに、御格子もさながら、人びとは、みなとく、よりふしつゝねいりたるに、例の寝覚は、なくや五月のみじか夜もあかしかねつゝ、(略)
(夜の寝覚~岩波・日本古典文学大系)

(天暦三年五月)十一日甲寅。上皇御西院。競馳御馬。
廿日癸亥。太上皇於朱雀院馬■(つちへん+孚)亭観競馬(十番)。騎射。左右奏東遊。
廿一日甲子。於二条院有打毬事。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

長元八年五月、三十講果てて、関白殿歌合せさせたまふ。殿上の人々を分たせたまふ。左方は蔵人頭経輔、済政、資業、良頼の東宮亮、良経の左馬頭、行経の少将、中宮大進義通、経季の少将、経長の弁、経成の少納言、信長の侍従、範国、資任、憲房、経平、実綱、蔵人は俊経、季通、貞章なり。右方は実経朝臣、兼房の中宮亮、資通の弁、俊家の中将、通基の四位侍従、師経の内蔵頭、行任、挙周、為善、国成、良宗の右衛門佐、資綱の少将、経家の少納言、経季の左衛門佐、三河守経信、定季の信濃守、蔵人は義清、家任、頼家と書かせたまひて、「題はこと心求むべきならず。ただこの間近く見ゆることをこそは」とて、月、五月雨、池水、菖蒲、蛍火、瞿麦、郭公、照射、これのみやほかの思ひやることはあらめとて、祝、恋と書かせたまひて、おのおの方々に、左には経輔の頭弁、右には良宗の蔵人右衛門佐にぞ召して賜はせたりし、頭弁は民部卿の服にて籠りゐたまへればなるべし。(略)
(栄花物語~新編日本古典文学全集)

十二日乙亥。於御所有和歌御会。題。深山郭公。隣家橘。社頭祈也。於常御所被披講。一条少将。右馬権頭。秋田城介。佐渡前司。河内前司。伊賀式部大夫入道。卿僧正。兵庫頭等参。前武州被奉置物砂金羽色革美絹以下云云。
十二日。乙亥。御所ニ於テ和歌御会有リ。題ハ、深山ノ郭公、隣家ノ橘、社頭ノ祈ナリ。常ノ御所ニ於テ披講セラル。一条ノ少将、右馬ノ権ノ頭、秋田ノ城ノ介、佐渡ノ前司、河内ノ前司、伊賀ノ式部大夫入道、卿ノ僧正、兵庫ノ頭等参ル。伊賀ノ式部大夫入道、卿ノ僧正、兵庫ノ頭等参ル。
(吾妻鏡【延応二年五月十二日】条~国文学研究資料館HPより)

寛弘二年五月十三日、庚申。
左府の許に参った。庚申待が行なわれた。殿上人は各々、一種物を随身して、あの殿に参った。騎射(うまゆみ)を召した。左近衛府と右近衛府が三番以上である。この夜、作文会が行なわれた。故納言(源保光)の忌月であったので、作文会には参加せず、ただ伺候しただけであった。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(建永元年五月)十二日。天晴る。新月、明かなり。懐旧の思ひに依り、中御門殿に参ず。庭前の月を望み、独り襟を霑(うるほ)す。護摩僧最珍、出で逢ふ。深更に帰る。漸く、旬月を送る。閑居寂寥たり。啻(ただ)、前途後栄の憑み無きのみにあらず。天曙日暮毎に、遠隔慈悲の恩容、恋慕の思ひ、堪へ忍び難し。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(嘉禄元年五月)十六日。天晴る。未の時許りに中将来たる。昨日参内。日来定めて所労ありて出仕せざる由、人々に披露す。昨日、親俊初めて七瀬御祓ひの使に奉行。七人催し出づと云々。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(寛喜二年五月)十九日(庚戌)。簷の溜り未だ乾かず。朝陽初めて見ゆ(巳の時に及び又雨降る)。桔梗の花初めて開く(今年甚だ速し)。終日雨降る(或は止み、陽景見ゆ)。夕に雷電。終夜、雨沃ぐが如し。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

貞治二のとしさ月中の十日。四の海しづまり。万国風おさまれるころ。春の杪は名ごりなくしげりはてゝ。夏木だちおりえがほなるに。(略)きのふ十日と沙汰有しに。雨の余波庭の露払がたきによりて。今日十一日なるべし。まづ辰の時に。為遠朝臣参りて。御装束拵。(略)賀茂の輩参て渡殿の座につく。鞠足の公卿殿上人次第に参着す。まづ蔵人懐国露払の鞠をもて庭中にをく。やがて露はらひの人数めしたてらる。基清朝臣。懐国。敏久。音平。能隆。商久。重敏など次第にたつ。いく程なくて露払とゞまる。殿直廬にて沓韈はきて。庭上を経て座につかる。蔵人懐国露払の鞠をとりてしりぞく。此間蔵人また枝に二付たるまり〈白まり上。ふすべ鞠下。〉をもちて。北の御所の木の下。北面の立蔀によせたつ。其後出御あり。(略)御直衣薄色の御指貫。〈文くゎにあられ。〉(略)御鞠かずありていとおもしろし。今日員申人のなきぞいと心えぬ事に侍る。されどその人なければちからなし。今日人々のあしもとすぐれてみゆ。右衛門督桜をよきてといひける面かげ。夏の梢にもうかむ心ちして。名残恋しきなどながめけむ人もありけんかし。(略)
(貞治二年御鞠記~群書類従19)


「言い兼ねる」用例

2016年05月07日 | 日本国語大辞典-あ行

 「言い兼(か)ねる」という単語の用例は、日本国語大辞典・第二版では、『風雅和歌集』(1346-49年頃)からの例が早いのですが、100年以上さかのぼる用例があります。

誰ゆへそ月をあはれといひかねて鳥のねをそきさよの手枕
(巻第三百八十二・正治二年院御百首、藤原定家、恋)
塙保己一編『続群書類従・第十四輯下(訂正三版)』続群書類従完成会、1983年、605ページ


古典の季節表現 夏 五月上旬

2016年05月06日 | 日本古典文学-夏

 かゝる紛れどもにて春も暮れぬるに、花の盛りを頼めつゝ訪(と)はずなりぬる人に、五月一日比、盛りなる藤に付けて遣はし侍。
  頼めてもとはれぬ花の春暮れてたれ松山とかゝる藤波
  とへや君山時鳥おとづれて小田の早苗も取りそむる比
返事に、
  頼め来(こ)し花の盛りは過ぬれど今も心にかゝる藤波
  時鳥さこそ五月の己(をの)が比鳴くや山路を思ひやりつゝ
(竹むきが記~岩波・新日本古典文学大系51)

五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴
我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
 右一首大原真人今城
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
 右一首大伴宿祢家持
(万葉集~バージニア大学HPより)

五月のはじめの日になりぬれば、れいの大夫
うちとけてけふだにきかんほとゝぎすしのびもあへぬときはきにけり
かへりごと
ほとゝぎすかくれなきねをきかせてはかけはなれぬるみとやなるらん
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

 承安二年五月東山仙洞にして公卿侍臣以下を左右に分ちて鵯合の事
 承安二年五月二日、東山仙洞にて鵯合(ひよどりあはせ)のことありけり。公卿・侍臣・僧徒・上下の北面の輩(ともがら)、つねに伺候のものども、左右をわかたれたり。左方頭、内蔵頭親信朝臣、右方頭、右近中将定能朝臣也。前夜、寝殿の巽(たつみ)にあたりて地台一面をおく。五節の造物の台のごとし。款冬(やまぶき)をむすびてうゑたり。其上に銀の賢木を栽(うゑ)て、葉柯に用(もちゐ)て銀台をすゑたり。たかさ八尺ばかり也。色どりて藤花をむすびてかけたり。葉柯の南に玉の鵯籠をおく。その北に銀鵯をいれておく。かりやの東砌に、第一の間にあたりて、挿花台をたてゝ、勝負の算とす。其北に錦円座を敷て太鼓・鉦鼓をたつ。仮屋の艮(うしとら)に、盧橘樹をつくりてうゑたり。同(おなじく)北の妻には、薔薇をつくりて栽(うゑ)たり。東砌には松樹に藤をかけてうゑたり。其外牡丹・款冬などをつくりて栽(うゑ)たり。(略)先(まづ)左方念人着座、次右方念人、西の中門を入て参進のあひだ、まゐり音声あり。竹屋をつくりて、黒木の屋に擬して、春日詣に准じけり。新源中納言拍子をとりて、「春日なる御堂の山のあをやまの」とうたふ。右中将定能朝臣、篳篥をふく。右少将雅賢、和琴を弾ず、府随身二人和琴をかく。件(くだんの)両人間(まま)助音しけり。又陪従信綱もおなじくつけゝり。右兵衛佐基範笛をふく。念人中雅賢朝臣・基範・侍従家保等、舞人の装束をして参進。見る人嗟嘆せずといふことなし。念人等右着座の後、左右の頭をめす。左方、伊予守親信朝臣、右方、右中将定能朝臣、御前にまゐる。左右の鳥、同時に持参すべきよしを仰す。即(すなはち)両方の鳥を持参して、南階の間のすのこにおく。一番左、右衛門督の鳥、字(あざな)無名丸、左少将盛頼朝臣持参す。右、五条大納言の鳥、字(あざな)千与丸、右少将雅賢朝臣持参す。左右ともにうそをふく。其興なきにあらず、勝負いかやうにみゆるやのよし、定能朝臣をもてたづね仰られければ、(略)左右持にさだめられにけり。仍(よりて)両方かずをさす。左方の算判蔵人右少将親宗、銀鵯一羽とりて参進して葉柯につく。次雅賢朝臣、先(まづ)挿冠(かざし)の花をぬきて、錦円座につく。次鳥をとりて退入(しりぞきいる)。盛頼朝臣おなじく鳥をとりてしりぞき入(いる)。其後十二番ありけり。左方勝四番、右方勝二番、持六番也。次左方楽器をたつ。次楽人参進して楽を奏す。次陵王、陵王の終頭に、右方より定能朝臣をもて此の如きの興遊に、左右勝負舞を奏する事先例あり、いかやうに存ず可き哉之由奏しければ、用意の事等、右懃仕す可き之由おほせられけり。次納蘇利を奏す。右近将曹多好方・右近多成長等つかうまつりけり。次右方楽人散楽、北面下臈等、錦の地鋪(ぢしき)を庭上に敷て、舞台に擬す。妓女二人、甘洲をまふ。負方妓女の舞を奏する事、いはれなき事なれども、用意のこと懃仕すべきよし仰下さるゝあひだ、奏しける也。源中納言鞨鼓をうちて、たかく唱歌(しゃうが)ありけり。此の間盃を羞む。右方人座を立て退去して、中門廊辺に徘徊しけり。次左右歌女(うたひめ)唱歌・舞妓猶舞(まふ)、興遊にたへず。公卿已下庭上にて乱舞ありけり。一日の放宴を為すと雖ども、定めて万代之美談を備ふる歟。昏黒事了、おのおの退出の事、(略)
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系84)

六日のつとめてよりあめはじまりて三四日ふる。かはとまさりて人ながるといふ。それもよろづをながめおもふにいといふかぎりにもあらねどいまはおもなれにたることなどはいかにも/\おもはぬに、このいし山にあひたりし法師のもとより「御いのりをなんする」といひたる かへりごとに「いまはかぎりにおもひはてにたるみをばほとけもいかゞし給はん、たゞいまはこの大夫を人々しくてあらせ給へなど許を申し給へ」とかくにぞなにとにかあらんかきくらしてなみだこぼるゝ。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

寛弘六年五月一日、乙卯。
内裏に参った。上野国の諸牧の御駒牽が行なわれた。
今朝、沐浴した。或る人が云ったことには、「五月は髪を洗わない。また、月の一日は沐浴を忌む」と云うことだ。そこで『暦林』を見てみると、「五月一日に髪を洗うのは良い。この日に沐浴すると、人の目を明るくし、長命富貴となる」と。また、云ったことには、「五月一日、日の出に沐浴すれば、過三百を除き、人に病を無くさせる。また、卯の日の沐浴、五月一日の沐浴は、寿命を延ばし、禍を除く」と。一に云ったことには、「朔日に沐浴すれば、三箇月を出ないで大喜が有る」と。これらの文が有ったので、沐浴を行なったのである。今日、内裏に参った。右近の仗座に伺候した。これより前、右大将(藤原実資)・中宮大夫(藤原斉信)・大蔵卿(藤原正光)が参られた。外記(小野)文義が小庭に進んで、御馬解文が揃っているということを申した。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

長保五年五月一日、庚寅。
外記庁に参った。左府(藤原道長)の許に参った。法華三十講始が行なわれた。院源僧都と林懐已講を証義者とした。朝晴を講師とした。日助を問者とした。講が終わって、作文会が行なわれた。文章博士(弓削)以言宿禰を題者とした。「雨は水上の糸である」を題とした。韻は流であった。そこで以言を序者とした。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

長保五年五月六日、乙未。
昨日と今日は物忌であった。召しが有ったので、晩方、内裏に参った。作文会が行なわれた。
題は「初蝉(しょぜん)、わずかに一声」であった。心を韻とした。(藤原)広業が序者となった。左大臣(道長)・左右衛門督(藤原公任・藤原斉信)・弼(藤原有国)・中将(源俊賢)・左大弁(藤原忠輔)・(藤原)実成・(高階)明順・(源)道方・(源)明理・(源)伊頼・(源)道済が、詩を献上した。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和二年五月)十日、庚子。
楽人たちを召して、小さな管弦の宴遊を行なって仏に供した。一日中、雨が降った。また、詩題をだした。後に人々は分散して帰り、各々、家において詩を作って、明日、持って来るように伝えた。深夜、人々は退出した。題は、「蓮の香りが近く、衣に入った」であった。薫を韻とした。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(元久元年五月)五日。天晴る。鳥羽殿に参ず。御出でおはしますの後に、退出す。明日、五節の遊びを行はるべしと云々。近習の公卿以下、殿上人六位となす。乱舞遊宴あるべしと云々。無骨の物、召されず。尤も然るべし。
六日。以後三ヶ日、籠居。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(寛喜元年五月)五日(壬申)。朝天晴る。(略)牡丹の花盛んに開く。此の花端午の日に逢ひ、年来之を見ず。瞿麦此の間に漸く綻ぶ。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

 武徳殿の小五月(こさつき)の競馬は、埒(らち)の弘(ひろ)ければ、遠騎(とほのり)なり。しかりといへども、勝負は事の外に早速なり。(略)
(中外抄~岩波・新日本古典文学大系32)

(2015年5月1日の「古典の季節表現 夏 五月一日」の記事は削除しました。)