① 初めてのラーメンは、
確か小学校4、5年生の頃ではなかったろうか。
母が、近所の友だちから、
その作り方を教えてもらうことになった。
土曜日だったと思う。
お昼ご飯は、ラーメンと言うものを初めて作るらしい。
「だから、どこにも寄り道しないで帰ってきなさい。」
母はいつになく、朝からはりきっていた。
学校が終わると、走って家へ帰った。
玄関を入った。すると新しくて美味しそうな臭いがした。
「鶏ガラでだしをとったんだよ。」
母は、胸を張った。
それが、凄いことなのかどうか、私には分からなかった。
時々、母の友だちが、『ラード』と言う、
これまた聞き慣れない単語を何度も遣っていた。
しばらくすると、見たことのない模様の丼に、
黄色の縮れた麺と肉などがのった、
初めてのラーメンが卓袱台に置かれた。
どんな味だったか、その記憶はない。
きっと美味しかったのだろう。
その後、何度か母にリクエストした憶えがある。
② 高校生活のほとんどは、生徒会活動に明け暮れた。
授業のために教室には行くが、
休み時間も放課後も、生徒会室に入り浸っていた。
毎日、生徒会の仕事をし、
役員と一緒に過ごす時間が、この上なく楽しかった。
この時期、体は小さいなりにも、急激に成長した。
とにかく、毎日すぐに空腹感がおとずれた。
朝食をたっぷりと食べたはずなのに、
10時頃には弁当が気になった。
先生たちの目を盗んで、
昼食時間前のいわゆる「早弁」をした。
なので、3時にはもう「腹、減った!」と叫んでいた。
校門の斜め向かいに、文房具屋を兼ねた小さな食堂があった。
運動部の連中は、練習後の6時過ぎに、
よくそこの暖簾をくぐり、席を奪い合っていた。
私たち生徒会役員は、それより早く、
4時過ぎにはその店に顔を出した。
メニューは豊富だった。
なのに、誰に薦められたのか、
そこの醤油ラーメンのとりこになった。
いつ頃からだろう、私が店に顔を出すと、
そこのご主人はあいさつもそこそこに、
生ラーメンを1玉ほぐし、熱湯の鍋に入れるようになった。
何も言わなくても、大好物が私のテーブルに届いた。
トッピングに麩が一切れのっていた。
これが醤油のつゆをすって、たまらなく美味しかった。
③ 大学があったのは、北海道の小都市だった。
その一角の路地が、ちょっとした飲食店街になっていた。
居酒屋やBARもあったが、
洋食や日本食の店、イタリアン風も並んでいた。
その店並の中央付近に3軒のラーメン専門店があった。
3年の時、その1軒に目が止まった。
改装したばかりで、外観からも小綺麗さが伝わってきた。
暖簾には、赤い字で『でめ金』とあった。
貧乏学生だったが、「時には奮発して!」と、
昼食に、その店の扉を開けた。
真新しい壁だった。
カウンターに、10数脚の椅子が並んでた。
薄桃色のエプロンがまぶしい、
少し小太りのお姉さんが、明るい顔で迎えてくれた。
「うちは、塩がお薦めですよ。」と聞き、
「それ、お願いします。」と即答した。
どこで聞いたのか、確かな情報なのか、
全く定かではないが、『北海道ラーメン』と称するには、
3つ条件が必要らしい。
1つ目は、麺が縮れていること。
2つ目は、トッピングにもやしが入っていること。
3つ目は、厨房がお客さんから見えること、なのだとか。
『でめ金』は、その条件を満たしていた。
店主がラーメンを作る様子がよく見えた。
中太で黄色みの濃い縮れ麺、そしてシャキシュキのもやし。
そのもやしが、塩味のあっさりとしたスープによくマッチした。
一度で、お気に入りのラーメンになった。
その後、2年余り、時々無性に『でめ金』へ行きたくなった。
お目当ては、塩ラーメン。
それから、薄桃色のエプロンにも、少し惹かれていた。
大学を卒業して、数年後、
お盆の帰省を兼ね、『でめ金』の味を訪ねてみた。
あの路地の飲食店街にラーメン店は、1軒もなかった。
そして、『でめ金』のその後を知る人にも出会わなかった。
④ 東京の小学校に勤務してまもなく、
先輩に誘われて歩行者天国の銀座に行った。
その洗練されたにぎわいに圧倒された。
しかし、田舎者なのに、大都会のその雰囲気が、
一度で好きになった。
以来、その先輩に何度も甘えて、
銀座、有楽町、日比谷と案内してもらった。
そんなある日、「美味しい店がある。」と、
連れて行ってくれたラーメン店がある。
それから、45年も過ぎた。
しかし、その店は今も同じ場所にある。
私が大好きになったメニューも変わらずに健在である。
本店は、秋葉原の万世橋そばにある。
『肉の万世』で名が通っている。
その『万世』が、本店の他に都内に4店舗だけ、
『万世拉麺』を出す店がある。
私が、先輩と初めて入った店は、
有楽町駅から徒歩1分、有楽町ビル地下1階の
『万世拉麺有楽町店』である。
同じフロアーの飲食店が、
この45年の間で色々と変わっていった。
しかし、この店は、
若干内装のリニューアルはあったものの、
その雰囲気やメニューは変わることがなく、
今に至っている。
先輩に薦められ、初めて食べたのが、
『特選排骨(パーコ)拉麺』だった。
醤油味のスープに真っ直ぐな麺。
その上に、薄い衣をつけてカラッと揚げた
豚肉・排骨(パーコ)がのっている。
スープも麺も決して飽きることはない。
それに加えて、特選の排骨が絶品である。
わざわざそれを食べに、
有楽町まで出向くことはなかった。
それでも、都心まで行く機会があると、
ついその店に足が向いた。
今も、年に何回か上京する機会がある。
その都度、その味につられて、カウンターに座ってしまう。
そして、ポイントカードまで、もらう有り様であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/3d/29d4e52c28f2d036c0497199af9bccf5.jpg)
伊達の8月は 『ガクアジサイ』
確か小学校4、5年生の頃ではなかったろうか。
母が、近所の友だちから、
その作り方を教えてもらうことになった。
土曜日だったと思う。
お昼ご飯は、ラーメンと言うものを初めて作るらしい。
「だから、どこにも寄り道しないで帰ってきなさい。」
母はいつになく、朝からはりきっていた。
学校が終わると、走って家へ帰った。
玄関を入った。すると新しくて美味しそうな臭いがした。
「鶏ガラでだしをとったんだよ。」
母は、胸を張った。
それが、凄いことなのかどうか、私には分からなかった。
時々、母の友だちが、『ラード』と言う、
これまた聞き慣れない単語を何度も遣っていた。
しばらくすると、見たことのない模様の丼に、
黄色の縮れた麺と肉などがのった、
初めてのラーメンが卓袱台に置かれた。
どんな味だったか、その記憶はない。
きっと美味しかったのだろう。
その後、何度か母にリクエストした憶えがある。
② 高校生活のほとんどは、生徒会活動に明け暮れた。
授業のために教室には行くが、
休み時間も放課後も、生徒会室に入り浸っていた。
毎日、生徒会の仕事をし、
役員と一緒に過ごす時間が、この上なく楽しかった。
この時期、体は小さいなりにも、急激に成長した。
とにかく、毎日すぐに空腹感がおとずれた。
朝食をたっぷりと食べたはずなのに、
10時頃には弁当が気になった。
先生たちの目を盗んで、
昼食時間前のいわゆる「早弁」をした。
なので、3時にはもう「腹、減った!」と叫んでいた。
校門の斜め向かいに、文房具屋を兼ねた小さな食堂があった。
運動部の連中は、練習後の6時過ぎに、
よくそこの暖簾をくぐり、席を奪い合っていた。
私たち生徒会役員は、それより早く、
4時過ぎにはその店に顔を出した。
メニューは豊富だった。
なのに、誰に薦められたのか、
そこの醤油ラーメンのとりこになった。
いつ頃からだろう、私が店に顔を出すと、
そこのご主人はあいさつもそこそこに、
生ラーメンを1玉ほぐし、熱湯の鍋に入れるようになった。
何も言わなくても、大好物が私のテーブルに届いた。
トッピングに麩が一切れのっていた。
これが醤油のつゆをすって、たまらなく美味しかった。
③ 大学があったのは、北海道の小都市だった。
その一角の路地が、ちょっとした飲食店街になっていた。
居酒屋やBARもあったが、
洋食や日本食の店、イタリアン風も並んでいた。
その店並の中央付近に3軒のラーメン専門店があった。
3年の時、その1軒に目が止まった。
改装したばかりで、外観からも小綺麗さが伝わってきた。
暖簾には、赤い字で『でめ金』とあった。
貧乏学生だったが、「時には奮発して!」と、
昼食に、その店の扉を開けた。
真新しい壁だった。
カウンターに、10数脚の椅子が並んでた。
薄桃色のエプロンがまぶしい、
少し小太りのお姉さんが、明るい顔で迎えてくれた。
「うちは、塩がお薦めですよ。」と聞き、
「それ、お願いします。」と即答した。
どこで聞いたのか、確かな情報なのか、
全く定かではないが、『北海道ラーメン』と称するには、
3つ条件が必要らしい。
1つ目は、麺が縮れていること。
2つ目は、トッピングにもやしが入っていること。
3つ目は、厨房がお客さんから見えること、なのだとか。
『でめ金』は、その条件を満たしていた。
店主がラーメンを作る様子がよく見えた。
中太で黄色みの濃い縮れ麺、そしてシャキシュキのもやし。
そのもやしが、塩味のあっさりとしたスープによくマッチした。
一度で、お気に入りのラーメンになった。
その後、2年余り、時々無性に『でめ金』へ行きたくなった。
お目当ては、塩ラーメン。
それから、薄桃色のエプロンにも、少し惹かれていた。
大学を卒業して、数年後、
お盆の帰省を兼ね、『でめ金』の味を訪ねてみた。
あの路地の飲食店街にラーメン店は、1軒もなかった。
そして、『でめ金』のその後を知る人にも出会わなかった。
④ 東京の小学校に勤務してまもなく、
先輩に誘われて歩行者天国の銀座に行った。
その洗練されたにぎわいに圧倒された。
しかし、田舎者なのに、大都会のその雰囲気が、
一度で好きになった。
以来、その先輩に何度も甘えて、
銀座、有楽町、日比谷と案内してもらった。
そんなある日、「美味しい店がある。」と、
連れて行ってくれたラーメン店がある。
それから、45年も過ぎた。
しかし、その店は今も同じ場所にある。
私が大好きになったメニューも変わらずに健在である。
本店は、秋葉原の万世橋そばにある。
『肉の万世』で名が通っている。
その『万世』が、本店の他に都内に4店舗だけ、
『万世拉麺』を出す店がある。
私が、先輩と初めて入った店は、
有楽町駅から徒歩1分、有楽町ビル地下1階の
『万世拉麺有楽町店』である。
同じフロアーの飲食店が、
この45年の間で色々と変わっていった。
しかし、この店は、
若干内装のリニューアルはあったものの、
その雰囲気やメニューは変わることがなく、
今に至っている。
先輩に薦められ、初めて食べたのが、
『特選排骨(パーコ)拉麺』だった。
醤油味のスープに真っ直ぐな麺。
その上に、薄い衣をつけてカラッと揚げた
豚肉・排骨(パーコ)がのっている。
スープも麺も決して飽きることはない。
それに加えて、特選の排骨が絶品である。
わざわざそれを食べに、
有楽町まで出向くことはなかった。
それでも、都心まで行く機会があると、
ついその店に足が向いた。
今も、年に何回か上京する機会がある。
その都度、その味につられて、カウンターに座ってしまう。
そして、ポイントカードまで、もらう有り様であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/3d/29d4e52c28f2d036c0497199af9bccf5.jpg)
伊達の8月は 『ガクアジサイ』
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