ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

現職の頃に書き記したこと

2025-01-25 11:00:16 | あの頃
 教職を去る時に、それまでに書き記したものをまとめた。
久しぶりにそのページをめくってみた。
 忘れかけていた大切なものを、揺り動かしてくれた。
その中から、3つを転記する。


     試行錯誤

 長年にわたり話題となっているテレビドラマの一つに、
『三年B組金八先生』があります。
 何度かそれがシリーズものとして繰り返されてきたので、
世代を越えてこのドラマをご覧になった方も少なくないように思います。

 確か数年前だったでしょうか、
もう50数歳になった姿の金八先生が放映されたようですが、
残念ながら私はそれを見る機会を逃してしまいました。

 しかし、もう20年以上も前になるでしょうか、
私はこのドラマのある場面を決して忘れることなく今もいます。

 それは、今で言う「学校の荒れ」を取り上げていたのですが、
非行グループが学校間抗争をくり返し、
その上、校内では暴力事件を頻繁に起こす。
 そのような状況の打開策を、
教職員と保護者が話し合うのですが、
「そんな非行グループは警察に任すしか方法はない」
と主張する保護者に対して、金八先生は異を唱えるのでした。

 果たしてその異が正しいのかどうか、
実際にそのような状況になったなら、
その判断はきわめて難しいところですが、
しかし彼が言った言葉は強く私を捉えました。

 それは、
「子供というのは大人と違うんです。
 だから毎日毎日いろいろと間違ったことをする。
間違った考えを持つ。
 それが子供なんです。
その間違いを私たち大人が、
それは間違いだと教えてやる。
 時にはそれを叱る。
それで子供はその間違いに気付くんです。
 それでも、また子供は間違うもんなんです。
そしたら、また大人が、それは間違いだと教えるのです。
 そうやって子供は少しずつ大人になっていくんです。
間違わなくなるんです。
 それを私たち大人が止めてしまったら、
子供はどうやって大人になるんですか。」

 確かにその通りだと、私は今も納得しています。
「これが正しい道だよ。
その道は間違っているよ。」
 そう教える時には、分かりやすく諭すような伝え方も、
場合によっては叱るような方法もあるでしょう。
 子供はそんな大人の教えを聞きながら、
毎日毎日、一人一人その子なりの試行錯誤をくり返し、
そして、その子らしい生き方を選択していくのだと思います。


     その子への理解を
                      
 ある研究会で講師をされた大先輩の校長先生が、
私にとってとても衝撃的な発言をしたことを書きます。

 それは、
「人は30年も40年もあるいはそれ以上長く生きてくると、
幼いときから今日までの間に、
どなたも1、2度は大きな失望や挫折感に支配され、
自らの命を断とうと思われたことがあるはずです。

 だけどそうしないで、今こうしているのは何故でしょうか。
それはきっとそんなことをしたら、
『間違いなくあの人だけは心から悲しむ、
もしかしたら、今の自分以上に落胆するに違いない。
 そうだ、そんな思いをさせてはいけない。』

 そう思ったからこそ立ち直り、
死を選ばず、今を生きているのではないでしょうか。
 つまり、生死は別として、
人は自分のことを心から理解してくれる存在があれば、
それを力にして、自らエネルギーを発揮し、生きていくのです。」
と言うのです。

 私は、体験的に大いに納得すると共に、
確かに人間は誰でも自分を理解してくれる存在を求めているし、
その存在があればこそ、自らのエネルギーをかきたてて、
毎日を生きていくのだと思います。

 子どもたちは、当然、性格や持ち味、能力、特性など
どの子として同じではありません。
 その一人一人を理解し、「よく理解している」ことを
その子に伝えながら触れ合うことは、難しい教育活動の一つです。
 しかし、『教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる』の言葉通り、
それこそが自ら進んで学習に取り組む子供の姿を、
保障する基本になると思います。


   「ごめんなさい」が言える

 作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの
絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第四巻『ごめんね ともだち』を紹介しようと思います。

 おかしな思いつきから、
キツネは「ともだちや」と言う商売を始めます。
 その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。

 しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプをしても、
オオカミはキツネにことごとく負けてしまいます。
 負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上「インチキはこの家から出て行け。」
とどしゃ降りの雨の中、
傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
 キツネはずぶぬれになりながら帰っていきます。

 それを見て、オオカミはすぐに家の中でしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
 「俺の言い過ぎだった。
あいつはインチキなんか絶対にしていない。」

 ですからオオカミは、次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな」と謝るつもりでした。
 しかし、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな。キツネ。」とは言えませんでした。

 キツネの方も「オオカミさん」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。

 オオカミとキツネに限らず、
誰にでも一度や二度このような経験があるのではないでしょうか。

 オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごねんね。ごめん。ごめんなさい。
 難しいんだ。
心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」

 このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
オオカミに「ごめんね」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。

 このお話では、なかなか「ごめんなさい」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙で、小さなアリがぬれてしまいます。
 その時、キツネがとっさに、
アリに言った「ごめん」が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは、互いに「ごめんね」と言い合い、
そして以前よりももっと仲のよい二人になるのでした。

 さて、このお話をどう読み取りますか。
オオカミとキツネ同様、
私たちはつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
 そんな時、自分の至らなさや勝手さに気付いても、
このお話のように、なかなか「ごめんなさい」が言えないことがあります。

 私たちの歩む道には、
それこそ「ごめんなさい」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。

 謝りたいのはオオカミだけではなっかたのです。
キツネも同じ気持ちだったのです。
 だとしたら、なかなか言えない「ごめんなさい」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。

  これからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、
社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
 だからこそ、間違いを素直に謝ると言ったことが、
極めて大切になる時代だと私は思えてなりません。




      積雪0の 真 冬
                  ※ 次回のブログ更新予定は、2月8日(土)です

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