▼ 平成24年6月上旬、
首都圏から北海道伊達市に移り住んだ。
家内と二人、退職後の新たなスタートだった。
伊達での暮らしは、「毎日がサンデー」。
再就職など視野になかった。
ダラダラと朝を過ごし、同じペースで時間を使い、
1日が終えるような気がした。
家内は別のようだが、私は、それを一番危惧した。
何か避ける方法はないか。その方策を探った。
それが、朝のジョギングだった。
毎朝、決めた時間に、決めた道を、ゆっくりでいいから走る。
それならば、ウオーキングでもよかった。
しかし、見栄を張った。
それより少しだけハードルを高くしたのだ。
振り返ると滑稽だが、
自宅からわずか2キロ足らずの周回コースを、
汗だくに荒い息で、スロースローのジョギングだった。
それでも、毎朝、気分は晴れやかになり、
そのまま1日を過ごした。
春からの移りゆく季節の風が、
家内と並走する私の背中を押した。
冬を迎えると、寒さと雪で走れない日が続いた。
春が待ち遠しかった。
そんな2月のある日、市内の店先に
『春一番伊達ハーフマラソン』のポスターがあった。
そんな地元の催しを知らなかった。
家内と二人、ポスターの前で立ち止まった。
「ハーフだけでないよ。10キロもある。ほら、5キロもある。」
思わず口にした。
それは、5キロのコースが、
毎朝ゆっくりジョギングしている道と、
一部分が重なっていたからだ。
地元での大会。しかも、身近なコース。
私の心が動いた。
「5キロなら、走れるのでは・・」。
その上、「地元の大会の、少しは役立つのでは・・」。
1人では心細かった。
強引に家内を誘った。
そして、5キロの部にエントリーした。
1枚のポスターが、導いてくれた。
▼ そして、平成25年4月、
家内と一緒に、5キロを走った。
2、5キロで折り返し、いつも走っている道を、
いつもより少し速く走った。
ゴール後、完走証を貰った。
嬉しかった。
それを両手で頭上にかざし、写メを撮った。
すぐに息子らに送った。
私は、完全に有頂天になっていた。
その興奮のまま、知り合いなどいないのに
10キロの部をゴールする人たちを、出迎えに行った。
倍の距離を走り終える健脚たちのゴールに、
笑顔で拍手した。
沢山のランナー達と一緒に、
腕と腕を紐でつないだ視覚障害の方と伴走者がゴールした。
テレビニュース以外では、初めて見るシーンだった。
何と言っても、ゴールした二人の後ろ姿が、素敵だった。
今も、はっきりと思い出せる。
互いの健闘をねぎらい、讃えていたのだろう。
二人の背中が、「まぶしくてまぶしくて」だった。
なぜか、5キロ完走で有頂天になっていることが、
恥ずかしくなった。
思わず、私は頂いた記録証を背中に隠していた。
大会会場から自宅までの道々、
「伴走者になりたい。」
何度も思った。
でも、どんなに頑張っても私には無理なこと。
ならば、来年は、あの2人と同じ10キロを走りたい。
1年後への、ハッキリとした目標ができた。
あの出逢いがなければ、
きっと私は翌年もその次の年も5キロを走り、
満足していたと思う。
▼ 翌年の大会、私は10キロにエントリーした。
家内と一緒に走り出し、何とか完走した。
視覚に障害のあるランナーと伴走者の姿を見ることはなかった。
でも、多くのランナーと一緒に、ゴールを目指した。
そこには、老・若・男・女、様々な人々がいた。
色々なスタイル、ファッションの人たちだったが、
みんな、はるか先の同じゴールに向かって走った。
目標は1つだった。
その連帯感が、やけに嬉しい気持ちにさせた。
大会参加の楽しさを知った。
「来年は、ハーフに挑戦したい。」
そんな気持ちが少し芽生えた。
大会から半月後だった。
私は、右手の尺骨神経マヒの手術を受けた。
経過が思わしくなく、術後に様々な制約が強いられた。
でも、1ヶ月後にはジョギングだけは許された。
私は、うっぷん晴らしとばかり、秋まで毎朝走った。
大会で芽生えたハーフマラソンへの意欲が増していった。
▼ 次の年、自信など全くなかったが、
「やってみたいんでしょう。ならチャレンジしてみたら」。
家内の言葉に押され、ハーフの部にエントリーした。
67歳の冒険だった。
ところが、大会まで1ヶ月余りの日だ。
緩い雪融けの上り坂を走っていた時、突然ふくらはぎに激痛が走った。
肉離れだった。
整骨院などで、治療を試みたが、大会には間に合わなかった。
沿道からランナーの勇姿を見た。
声援のポジションにいることが、悔しかった。
まさにアスリートと同じ気分だ。
そのリベンジとばかり、
同じ年、6月に八雲、9月に旭川、そして11月に江東区と、
ハーフマラソンに挑戦し、完走を果たした。
その頃、新しくできた伊達市体育館のトレーニング室に、
ランニングサークル『スマイル ジョグ ダテ』が発足した。
目的は、伊達ハーフマラソンを、みんなで走ることだった。
そこに、フルマラソンを何度も完走した健脚が2人いた。
「ハーフを3度も完走できたんだから、フルも走れますよ。」
2人とも、口をそろえて、2度も3度も私に言った。
「いや、私はもう年だから・・」。
そう尻込みする私に、2人は涼しい顔でいつも言い切った。
「年令、そんなの関係ない。」
▼ 一昨年、昨年と、
4月の伊達ハーフマラソン、そして5月の洞爺湖のフルマラソンにチャレンジした。
昨年のフルは、悔しい途中棄権だった。
しかし、伊達ハーフマラソンの大会に初参加してから5年間、
5キロ完走1回、10キロ完走2回、ハーフマラソン完走11回、
フルマラソン完走1回を数える。
規則的な暮らしのために始めたジョギングだった。
それが、地元の『伊達ハーフマラソン』での様々な出逢いを通し、
今の私の走りに繋がっている。
▼ さて、今年である。
1週間後には、『第31回春一番伊達ハーフマラソン』だ。
当然、ハーフの部にエントリーした。
しかしなのだ。
正月から風邪をくり返してきた。
それでも、間隔を開けながら、暖かな好天の日は外を、
雪や寒さの日は、体育館やトレーニング室を、
マイペースでランニングしてきた。
ところが、3月下旬から昼間も伏せる日が続いた。
風邪と思われる体調不良が、深刻になった。
処方してもらった薬を欠かさず服用した。
それでも、一進一退が続いた。
そんなある日夕食の後だ。
電話が鳴った。
薬を処方して頂いた医師からだった。
「喉の検査から、肺炎桿菌か見つかりました。
違うお薬を出しますので、明日にでも来院してください。」
翌日、医師は
「治るまで運動は控えた方がいいです。」
病状と一緒にそう説明した。
今は、まだ6割程度の回復と自己診断している。
これでは、スタート位置に立てない。
「退く勇気を持つ。」
今年は、そう決めた。
小さな川岸の春 ・ つくし
首都圏から北海道伊達市に移り住んだ。
家内と二人、退職後の新たなスタートだった。
伊達での暮らしは、「毎日がサンデー」。
再就職など視野になかった。
ダラダラと朝を過ごし、同じペースで時間を使い、
1日が終えるような気がした。
家内は別のようだが、私は、それを一番危惧した。
何か避ける方法はないか。その方策を探った。
それが、朝のジョギングだった。
毎朝、決めた時間に、決めた道を、ゆっくりでいいから走る。
それならば、ウオーキングでもよかった。
しかし、見栄を張った。
それより少しだけハードルを高くしたのだ。
振り返ると滑稽だが、
自宅からわずか2キロ足らずの周回コースを、
汗だくに荒い息で、スロースローのジョギングだった。
それでも、毎朝、気分は晴れやかになり、
そのまま1日を過ごした。
春からの移りゆく季節の風が、
家内と並走する私の背中を押した。
冬を迎えると、寒さと雪で走れない日が続いた。
春が待ち遠しかった。
そんな2月のある日、市内の店先に
『春一番伊達ハーフマラソン』のポスターがあった。
そんな地元の催しを知らなかった。
家内と二人、ポスターの前で立ち止まった。
「ハーフだけでないよ。10キロもある。ほら、5キロもある。」
思わず口にした。
それは、5キロのコースが、
毎朝ゆっくりジョギングしている道と、
一部分が重なっていたからだ。
地元での大会。しかも、身近なコース。
私の心が動いた。
「5キロなら、走れるのでは・・」。
その上、「地元の大会の、少しは役立つのでは・・」。
1人では心細かった。
強引に家内を誘った。
そして、5キロの部にエントリーした。
1枚のポスターが、導いてくれた。
▼ そして、平成25年4月、
家内と一緒に、5キロを走った。
2、5キロで折り返し、いつも走っている道を、
いつもより少し速く走った。
ゴール後、完走証を貰った。
嬉しかった。
それを両手で頭上にかざし、写メを撮った。
すぐに息子らに送った。
私は、完全に有頂天になっていた。
その興奮のまま、知り合いなどいないのに
10キロの部をゴールする人たちを、出迎えに行った。
倍の距離を走り終える健脚たちのゴールに、
笑顔で拍手した。
沢山のランナー達と一緒に、
腕と腕を紐でつないだ視覚障害の方と伴走者がゴールした。
テレビニュース以外では、初めて見るシーンだった。
何と言っても、ゴールした二人の後ろ姿が、素敵だった。
今も、はっきりと思い出せる。
互いの健闘をねぎらい、讃えていたのだろう。
二人の背中が、「まぶしくてまぶしくて」だった。
なぜか、5キロ完走で有頂天になっていることが、
恥ずかしくなった。
思わず、私は頂いた記録証を背中に隠していた。
大会会場から自宅までの道々、
「伴走者になりたい。」
何度も思った。
でも、どんなに頑張っても私には無理なこと。
ならば、来年は、あの2人と同じ10キロを走りたい。
1年後への、ハッキリとした目標ができた。
あの出逢いがなければ、
きっと私は翌年もその次の年も5キロを走り、
満足していたと思う。
▼ 翌年の大会、私は10キロにエントリーした。
家内と一緒に走り出し、何とか完走した。
視覚に障害のあるランナーと伴走者の姿を見ることはなかった。
でも、多くのランナーと一緒に、ゴールを目指した。
そこには、老・若・男・女、様々な人々がいた。
色々なスタイル、ファッションの人たちだったが、
みんな、はるか先の同じゴールに向かって走った。
目標は1つだった。
その連帯感が、やけに嬉しい気持ちにさせた。
大会参加の楽しさを知った。
「来年は、ハーフに挑戦したい。」
そんな気持ちが少し芽生えた。
大会から半月後だった。
私は、右手の尺骨神経マヒの手術を受けた。
経過が思わしくなく、術後に様々な制約が強いられた。
でも、1ヶ月後にはジョギングだけは許された。
私は、うっぷん晴らしとばかり、秋まで毎朝走った。
大会で芽生えたハーフマラソンへの意欲が増していった。
▼ 次の年、自信など全くなかったが、
「やってみたいんでしょう。ならチャレンジしてみたら」。
家内の言葉に押され、ハーフの部にエントリーした。
67歳の冒険だった。
ところが、大会まで1ヶ月余りの日だ。
緩い雪融けの上り坂を走っていた時、突然ふくらはぎに激痛が走った。
肉離れだった。
整骨院などで、治療を試みたが、大会には間に合わなかった。
沿道からランナーの勇姿を見た。
声援のポジションにいることが、悔しかった。
まさにアスリートと同じ気分だ。
そのリベンジとばかり、
同じ年、6月に八雲、9月に旭川、そして11月に江東区と、
ハーフマラソンに挑戦し、完走を果たした。
その頃、新しくできた伊達市体育館のトレーニング室に、
ランニングサークル『スマイル ジョグ ダテ』が発足した。
目的は、伊達ハーフマラソンを、みんなで走ることだった。
そこに、フルマラソンを何度も完走した健脚が2人いた。
「ハーフを3度も完走できたんだから、フルも走れますよ。」
2人とも、口をそろえて、2度も3度も私に言った。
「いや、私はもう年だから・・」。
そう尻込みする私に、2人は涼しい顔でいつも言い切った。
「年令、そんなの関係ない。」
▼ 一昨年、昨年と、
4月の伊達ハーフマラソン、そして5月の洞爺湖のフルマラソンにチャレンジした。
昨年のフルは、悔しい途中棄権だった。
しかし、伊達ハーフマラソンの大会に初参加してから5年間、
5キロ完走1回、10キロ完走2回、ハーフマラソン完走11回、
フルマラソン完走1回を数える。
規則的な暮らしのために始めたジョギングだった。
それが、地元の『伊達ハーフマラソン』での様々な出逢いを通し、
今の私の走りに繋がっている。
▼ さて、今年である。
1週間後には、『第31回春一番伊達ハーフマラソン』だ。
当然、ハーフの部にエントリーした。
しかしなのだ。
正月から風邪をくり返してきた。
それでも、間隔を開けながら、暖かな好天の日は外を、
雪や寒さの日は、体育館やトレーニング室を、
マイペースでランニングしてきた。
ところが、3月下旬から昼間も伏せる日が続いた。
風邪と思われる体調不良が、深刻になった。
処方してもらった薬を欠かさず服用した。
それでも、一進一退が続いた。
そんなある日夕食の後だ。
電話が鳴った。
薬を処方して頂いた医師からだった。
「喉の検査から、肺炎桿菌か見つかりました。
違うお薬を出しますので、明日にでも来院してください。」
翌日、医師は
「治るまで運動は控えた方がいいです。」
病状と一緒にそう説明した。
今は、まだ6割程度の回復と自己診断している。
これでは、スタート位置に立てない。
「退く勇気を持つ。」
今年は、そう決めた。
小さな川岸の春 ・ つくし
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