ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

あゆみ ~6年目の伊達ハーフマラソン

2018-04-07 15:16:36 | 北の湘南・伊達
 ▼ 平成24年6月上旬、
首都圏から北海道伊達市に移り住んだ。
 家内と二人、退職後の新たなスタートだった。

 伊達での暮らしは、「毎日がサンデー」。
再就職など視野になかった。
 ダラダラと朝を過ごし、同じペースで時間を使い、
1日が終えるような気がした。
 家内は別のようだが、私は、それを一番危惧した。

 何か避ける方法はないか。その方策を探った。
それが、朝のジョギングだった。
 毎朝、決めた時間に、決めた道を、ゆっくりでいいから走る。
それならば、ウオーキングでもよかった。
 しかし、見栄を張った。
それより少しだけハードルを高くしたのだ。

 振り返ると滑稽だが、
自宅からわずか2キロ足らずの周回コースを、
汗だくに荒い息で、スロースローのジョギングだった。
 それでも、毎朝、気分は晴れやかになり、
そのまま1日を過ごした。

 春からの移りゆく季節の風が、
家内と並走する私の背中を押した。
 冬を迎えると、寒さと雪で走れない日が続いた。
春が待ち遠しかった。

 そんな2月のある日、市内の店先に
『春一番伊達ハーフマラソン』のポスターがあった。
 そんな地元の催しを知らなかった。

 家内と二人、ポスターの前で立ち止まった。
「ハーフだけでないよ。10キロもある。ほら、5キロもある。」
 思わず口にした。
それは、5キロのコースが、
毎朝ゆっくりジョギングしている道と、
一部分が重なっていたからだ。

 地元での大会。しかも、身近なコース。
私の心が動いた。
 「5キロなら、走れるのでは・・」。
その上、「地元の大会の、少しは役立つのでは・・」。

 1人では心細かった。
強引に家内を誘った。
 そして、5キロの部にエントリーした。

 1枚のポスターが、導いてくれた。

 ▼ そして、平成25年4月、
家内と一緒に、5キロを走った。
 2、5キロで折り返し、いつも走っている道を、
いつもより少し速く走った。

 ゴール後、完走証を貰った。
嬉しかった。
 それを両手で頭上にかざし、写メを撮った。
すぐに息子らに送った。
 私は、完全に有頂天になっていた。

 その興奮のまま、知り合いなどいないのに
10キロの部をゴールする人たちを、出迎えに行った。
 倍の距離を走り終える健脚たちのゴールに、
笑顔で拍手した。

 沢山のランナー達と一緒に、
腕と腕を紐でつないだ視覚障害の方と伴走者がゴールした。
 テレビニュース以外では、初めて見るシーンだった。

 何と言っても、ゴールした二人の後ろ姿が、素敵だった。
今も、はっきりと思い出せる。
 互いの健闘をねぎらい、讃えていたのだろう。
二人の背中が、「まぶしくてまぶしくて」だった。
 
 なぜか、5キロ完走で有頂天になっていることが、
恥ずかしくなった。
 思わず、私は頂いた記録証を背中に隠していた。

 大会会場から自宅までの道々、
「伴走者になりたい。」
何度も思った。

 でも、どんなに頑張っても私には無理なこと。
ならば、来年は、あの2人と同じ10キロを走りたい。
 1年後への、ハッキリとした目標ができた。

 あの出逢いがなければ、
きっと私は翌年もその次の年も5キロを走り、
満足していたと思う。

 ▼ 翌年の大会、私は10キロにエントリーした。
家内と一緒に走り出し、何とか完走した。
 視覚に障害のあるランナーと伴走者の姿を見ることはなかった。

 でも、多くのランナーと一緒に、ゴールを目指した。
そこには、老・若・男・女、様々な人々がいた。
 色々なスタイル、ファッションの人たちだったが、
みんな、はるか先の同じゴールに向かって走った。
 目標は1つだった。
その連帯感が、やけに嬉しい気持ちにさせた。
 大会参加の楽しさを知った。
 「来年は、ハーフに挑戦したい。」
そんな気持ちが少し芽生えた。

 大会から半月後だった。
私は、右手の尺骨神経マヒの手術を受けた。
 経過が思わしくなく、術後に様々な制約が強いられた。
でも、1ヶ月後にはジョギングだけは許された。

 私は、うっぷん晴らしとばかり、秋まで毎朝走った。
大会で芽生えたハーフマラソンへの意欲が増していった。

 ▼ 次の年、自信など全くなかったが、
「やってみたいんでしょう。ならチャレンジしてみたら」。
 家内の言葉に押され、ハーフの部にエントリーした。
67歳の冒険だった。

 ところが、大会まで1ヶ月余りの日だ。
緩い雪融けの上り坂を走っていた時、突然ふくらはぎに激痛が走った。
 肉離れだった。
整骨院などで、治療を試みたが、大会には間に合わなかった。
 
 沿道からランナーの勇姿を見た。
声援のポジションにいることが、悔しかった。
 まさにアスリートと同じ気分だ。

 そのリベンジとばかり、
同じ年、6月に八雲、9月に旭川、そして11月に江東区と、
ハーフマラソンに挑戦し、完走を果たした。

 その頃、新しくできた伊達市体育館のトレーニング室に、
ランニングサークル『スマイル ジョグ ダテ』が発足した。
 目的は、伊達ハーフマラソンを、みんなで走ることだった。

 そこに、フルマラソンを何度も完走した健脚が2人いた。
「ハーフを3度も完走できたんだから、フルも走れますよ。」
 2人とも、口をそろえて、2度も3度も私に言った。

 「いや、私はもう年だから・・」。
そう尻込みする私に、2人は涼しい顔でいつも言い切った。
 「年令、そんなの関係ない。」

 ▼ 一昨年、昨年と、
4月の伊達ハーフマラソン、そして5月の洞爺湖のフルマラソンにチャレンジした。
 昨年のフルは、悔しい途中棄権だった。

 しかし、伊達ハーフマラソンの大会に初参加してから5年間、
5キロ完走1回、10キロ完走2回、ハーフマラソン完走11回、
フルマラソン完走1回を数える。
 
 規則的な暮らしのために始めたジョギングだった。
それが、地元の『伊達ハーフマラソン』での様々な出逢いを通し、
今の私の走りに繋がっている。

 ▼ さて、今年である。
1週間後には、『第31回春一番伊達ハーフマラソン』だ。
 当然、ハーフの部にエントリーした。

 しかしなのだ。
正月から風邪をくり返してきた。
 それでも、間隔を開けながら、暖かな好天の日は外を、
雪や寒さの日は、体育館やトレーニング室を、
マイペースでランニングしてきた。

 ところが、3月下旬から昼間も伏せる日が続いた。
風邪と思われる体調不良が、深刻になった。
 処方してもらった薬を欠かさず服用した。
それでも、一進一退が続いた。

 そんなある日夕食の後だ。
電話が鳴った。
 薬を処方して頂いた医師からだった。
「喉の検査から、肺炎桿菌か見つかりました。
違うお薬を出しますので、明日にでも来院してください。」

 翌日、医師は
「治るまで運動は控えた方がいいです。」
病状と一緒にそう説明した。

 今は、まだ6割程度の回復と自己診断している。
これでは、スタート位置に立てない。
 「退く勇気を持つ。」
今年は、そう決めた。





  小さな川岸の春 ・ つくし  

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