「今を逃したら、またしばらく行けなくなるかも・・。
だから、思い切って2年ぶりに、
東京へ孫の顔を見に行くことにしたの」。
正月の予定を明るく話す方がいた。
私は、まだその勇気がない。
しばらくは、オミクロン株の推移と、
3回目のワクチン接種の状況を見て・・・。
「それまでは、東京は控えよう!」。
それにしても、テレビでは様々な旅番組が流れる。
行ったことない海外は論外だが、
国内でも、何度か足を運んだ名所には、
ついつい『あの時のあのこと』を思い出し、
「叶うなら、もう一度行けたらいいなぁ」と・・・。
再放送だったが、先日放送された『日光』には縁があった。
数々の場面が浮かんだ。
①
中学1年の正月、父母と一緒に叔母が暮らす宇都宮を訪ねた。
その時、初めて日光を訪ねた。
最初に東照宮へ行った。
陽明門の前で、ガイドの旗をもった方の説明を聞いた。
1日中見ていても飽きないくらいの装飾を自慢するガイドさんが、
すごく偉い人のように見えた。
そして、有名な『眠り猫』を、
なかなか探せない母に、父が指を差して教えていた。
その後、中禅寺湖まで行くことなった。
かなり前に廃線となったが、
「馬返し」と言う所から、初めてケーブルカーに乗った。
最前列に座り、急な線路をドンドン進んだ。
途中で、降りてくる車両とすれ違うのだが・・。
そこだけ線路が単線から複線になっていた。
すごい仕掛けに、思わず声を張り上げそうになった。
中禅寺湖の湖畔は、「馬返し」までとは違い一面の雪だった。
雪には慣れていた。
母の履く雪草履が、歩くたびにキュッキュッとなった。
一緒だった叔母が、不思議そうに訊いた。
「さっきから、雪の中で何が鳴いているの?」。
「この音ですか、寒い日に雪の上を歩くとなるんですよ」。
その時だけ、母は得意気な顔をした。
②
教職1年目から、日光へは宿泊学習で子ども達と一緒に行った。
1年に3度の時も・・・。
子ども達連れの日光では、その都度、数々のドラマがあった。
このブログでも、その幾つかを書いてきたが、
景勝地をハイキングしたエピソードを2つ。
▼ 5年生との宿泊学習の2日目は、
奥日光のハイキングだった。
その年はやや距離が長くハードコースを選んだ。
夏山の涼しい風を受けながら、どの子も軽快に歩いた。
中間点で、昼食を済ませ、
後半がスタートした矢先だった。
どうしたのか、太い木が横倒しになり、道を塞いでいた。
子どもが一またぎするには、大きすぎた。
どの子も一度木の上に立ってから、
飛び降りて、その障害を越えた。
1人1人に手を添えて、先生たちが手助けをした。
ところが、飛び降り方が悪く、足をくじいた男の子がいた。
しばらくは、痛みを堪えて歩いたが、
次第に列から遅れ始めた。
その日の私は、列の最後尾を担当していた。
ハイキングの終着点まで1時間を切ったあたりで、
足を引きずっている隣の学級のその子と出会った。
傷めた足を見ると、
くるぶしのあたりが膨らみ熱をもっていた。
持参した湿布薬を張り、一緒にゆっくりと歩いた。
しかし、次第次第に立ち止まる回数が増え、
辛そうな顔になった。
子ども達の列からは、大きく離れてしまった。
私は決めた。
リックを胸にし、その子を背中におんぶした。
立ち上げって、歩き出してから初めて分かった。
予想していた以上に太っていた。
重いのだ。
その上、両腿の開きが小さく、
背中にぴったりと背負えないのだ。
「おぶりにくい!」。
次第に、重さが辛くなり、
「少しでも楽におぶりたい!」。
ついにその子に訊いてみた。
「ねえ、もう少し股のところ開かないかな」。
その子は、すまなそうに小さな声で、
「無理です」。
私は、おんぶする両腕がパンパンになりながらも、
予定した最後の休憩地点を目指して、みんなを追った。
気づくと、背中でその子は何度も鼻をすすっていた。
「足、痛いんだね。もう少しだから、我慢して!」
私も山道での思わぬハプニングに精一杯だった。
「痛いのより・・、先生、ありがとう!」。
その子の涙声に、
私は、首を振って応えることしかできなかった。
▼ この年も、2日目は奥日光のハイキングだった。
宿舎からバスで『いろは坂』を上り、湯の湖まで行って下車する。
そこから湯の湖畔を回り、
戦場ヶ原の木道をハイキングする計画だった。
目覚めると、薄曇りながら穏やかな朝だった。
ところが、天気予報は不安定な空模様を告げていた。
念のため、宿舎の管理人さんに尋ねてみた。
「奥日光の天気はこことは違うことがあります。
雨具の用意をして、出かけてはどうでしょう。」
との、返事だった。
なので、私は、子ども達全員を集めての朝会で、
「もしかすると、途中で雨になることもあるので」と、
ハイキングのリュックに、雨具を追加するよう指示した。
そして、いよいよ湯の湖からのハイキングがスタートした。
空を見上げても一向に変わりなかったのに、
歩き始めて20分位がたっただろうか。
雷鳴と共に、雨が落ちてきた。
みるみる間に、雨脚が強くなった。
先頭を歩く私は、湖畔沿いの遊歩道で立ち止まり、
子ども達に雨合羽の着用を指示した。
私も合羽を着て、となりの校長先生を見た。
小さな折りたたみ傘を差していた。
「安易でした。大丈夫と思って・・」。
合羽の私たちとは違い、
校長先生は次第にびしょ濡れになった。
しばらくして、校長先生は立ち止まり、私に言った。
「私は、これから引き返します」。
聞き間違いかと耳を疑った。
驚きの表情をする私に、いつになく強い口調で校長先生は続けた。
「塚原先生は、子ども達を湯滝の駐車場まで
誘導してください。私は、急いで戻って、バスに連絡して、
湯滝へ行くように手配します。
このまま戦場ヶ原をずっと歩き続ける訳にはいかないでしょう。」
とんだ私の誤解だった。
このような場合、校長が、子ども達と一緒の場を離れるのは、
リスクが大きいことだった。
しかし、引き返してもすでにバスが移動した後なら、
携帯のないあの時代は連絡が難しくなる。
それに対応できるのは、「私しかいない」と、
校長先生は判断したのだ。
私は重責を託された。
豪雨の中を70数名、
全員無事に湯滝の駐車場まで誘導しなければならない。
そのころ校長先生は、小さな傘もささず、
小走りで、湯の湖で降りたバスを目指した。
その2台のバスが、戦場ヶ原へ向かって走り出し、
大通りに出たばかりだった。
ずぶ濡れの校長先生が、その車道の真ん中で両手を広げ、
バスを止めた。
事情を知ったバスは、校長先生を乗せ、
子ども達が向かっている湯滝へと急いだのだ。
あのまま降りしきる雨の中を戦場ヶ原まで歩いていたなら、
それを想像すると、今も校長先生の決断に頭が下がる。
③
6歳違いの姉夫婦が、東京旅行に来た。
ぜひ日光へ行きたいとのことだったので、
マイカーで案内した。
宿泊の予定がないので、慌ただしく名所巡りをして、
名物のゆば懐石を食べた。
そして最後に、明るい義兄ならきっと大笑いするだろうと、
老舗の羊羹店へ案内した。
車を降り、3人でその店に入った。
すると、年老いた店主が大きなガラスケースの奥に立っていた。
私たちを見るなり、
「羊羹なら、もうない。明日だ、明日!」。
私は何度もその店で羊羹を買っていた。
竹皮に包んだ本格的なもので、実に美味しいのだ。
だから、店主への対応は心得ていた。
「そうですか。でも、
わざわざこちらの羊羹をおみやげにと、
立ち寄ったんです。」
「どこからきたんだ?」
「私は、千葉から、こっちの2人は北海道からです。」
「そうか。何本いるんだ。」
「3本でいいです。」
「おーい、3本用意してやれ。
今持ってくるから」。
その後、店の奥から綺麗に包装された羊羹3本が運ばれてくる。
料金を払い、客が頭をさげ、退店するのだ。
店を出て、車のドアをしめるなり、
案の定、「あんな商売ってあるのか!」と、
義兄は大声で笑い出した。
一夜にして 雪景色
だから、思い切って2年ぶりに、
東京へ孫の顔を見に行くことにしたの」。
正月の予定を明るく話す方がいた。
私は、まだその勇気がない。
しばらくは、オミクロン株の推移と、
3回目のワクチン接種の状況を見て・・・。
「それまでは、東京は控えよう!」。
それにしても、テレビでは様々な旅番組が流れる。
行ったことない海外は論外だが、
国内でも、何度か足を運んだ名所には、
ついつい『あの時のあのこと』を思い出し、
「叶うなら、もう一度行けたらいいなぁ」と・・・。
再放送だったが、先日放送された『日光』には縁があった。
数々の場面が浮かんだ。
①
中学1年の正月、父母と一緒に叔母が暮らす宇都宮を訪ねた。
その時、初めて日光を訪ねた。
最初に東照宮へ行った。
陽明門の前で、ガイドの旗をもった方の説明を聞いた。
1日中見ていても飽きないくらいの装飾を自慢するガイドさんが、
すごく偉い人のように見えた。
そして、有名な『眠り猫』を、
なかなか探せない母に、父が指を差して教えていた。
その後、中禅寺湖まで行くことなった。
かなり前に廃線となったが、
「馬返し」と言う所から、初めてケーブルカーに乗った。
最前列に座り、急な線路をドンドン進んだ。
途中で、降りてくる車両とすれ違うのだが・・。
そこだけ線路が単線から複線になっていた。
すごい仕掛けに、思わず声を張り上げそうになった。
中禅寺湖の湖畔は、「馬返し」までとは違い一面の雪だった。
雪には慣れていた。
母の履く雪草履が、歩くたびにキュッキュッとなった。
一緒だった叔母が、不思議そうに訊いた。
「さっきから、雪の中で何が鳴いているの?」。
「この音ですか、寒い日に雪の上を歩くとなるんですよ」。
その時だけ、母は得意気な顔をした。
②
教職1年目から、日光へは宿泊学習で子ども達と一緒に行った。
1年に3度の時も・・・。
子ども達連れの日光では、その都度、数々のドラマがあった。
このブログでも、その幾つかを書いてきたが、
景勝地をハイキングしたエピソードを2つ。
▼ 5年生との宿泊学習の2日目は、
奥日光のハイキングだった。
その年はやや距離が長くハードコースを選んだ。
夏山の涼しい風を受けながら、どの子も軽快に歩いた。
中間点で、昼食を済ませ、
後半がスタートした矢先だった。
どうしたのか、太い木が横倒しになり、道を塞いでいた。
子どもが一またぎするには、大きすぎた。
どの子も一度木の上に立ってから、
飛び降りて、その障害を越えた。
1人1人に手を添えて、先生たちが手助けをした。
ところが、飛び降り方が悪く、足をくじいた男の子がいた。
しばらくは、痛みを堪えて歩いたが、
次第に列から遅れ始めた。
その日の私は、列の最後尾を担当していた。
ハイキングの終着点まで1時間を切ったあたりで、
足を引きずっている隣の学級のその子と出会った。
傷めた足を見ると、
くるぶしのあたりが膨らみ熱をもっていた。
持参した湿布薬を張り、一緒にゆっくりと歩いた。
しかし、次第次第に立ち止まる回数が増え、
辛そうな顔になった。
子ども達の列からは、大きく離れてしまった。
私は決めた。
リックを胸にし、その子を背中におんぶした。
立ち上げって、歩き出してから初めて分かった。
予想していた以上に太っていた。
重いのだ。
その上、両腿の開きが小さく、
背中にぴったりと背負えないのだ。
「おぶりにくい!」。
次第に、重さが辛くなり、
「少しでも楽におぶりたい!」。
ついにその子に訊いてみた。
「ねえ、もう少し股のところ開かないかな」。
その子は、すまなそうに小さな声で、
「無理です」。
私は、おんぶする両腕がパンパンになりながらも、
予定した最後の休憩地点を目指して、みんなを追った。
気づくと、背中でその子は何度も鼻をすすっていた。
「足、痛いんだね。もう少しだから、我慢して!」
私も山道での思わぬハプニングに精一杯だった。
「痛いのより・・、先生、ありがとう!」。
その子の涙声に、
私は、首を振って応えることしかできなかった。
▼ この年も、2日目は奥日光のハイキングだった。
宿舎からバスで『いろは坂』を上り、湯の湖まで行って下車する。
そこから湯の湖畔を回り、
戦場ヶ原の木道をハイキングする計画だった。
目覚めると、薄曇りながら穏やかな朝だった。
ところが、天気予報は不安定な空模様を告げていた。
念のため、宿舎の管理人さんに尋ねてみた。
「奥日光の天気はこことは違うことがあります。
雨具の用意をして、出かけてはどうでしょう。」
との、返事だった。
なので、私は、子ども達全員を集めての朝会で、
「もしかすると、途中で雨になることもあるので」と、
ハイキングのリュックに、雨具を追加するよう指示した。
そして、いよいよ湯の湖からのハイキングがスタートした。
空を見上げても一向に変わりなかったのに、
歩き始めて20分位がたっただろうか。
雷鳴と共に、雨が落ちてきた。
みるみる間に、雨脚が強くなった。
先頭を歩く私は、湖畔沿いの遊歩道で立ち止まり、
子ども達に雨合羽の着用を指示した。
私も合羽を着て、となりの校長先生を見た。
小さな折りたたみ傘を差していた。
「安易でした。大丈夫と思って・・」。
合羽の私たちとは違い、
校長先生は次第にびしょ濡れになった。
しばらくして、校長先生は立ち止まり、私に言った。
「私は、これから引き返します」。
聞き間違いかと耳を疑った。
驚きの表情をする私に、いつになく強い口調で校長先生は続けた。
「塚原先生は、子ども達を湯滝の駐車場まで
誘導してください。私は、急いで戻って、バスに連絡して、
湯滝へ行くように手配します。
このまま戦場ヶ原をずっと歩き続ける訳にはいかないでしょう。」
とんだ私の誤解だった。
このような場合、校長が、子ども達と一緒の場を離れるのは、
リスクが大きいことだった。
しかし、引き返してもすでにバスが移動した後なら、
携帯のないあの時代は連絡が難しくなる。
それに対応できるのは、「私しかいない」と、
校長先生は判断したのだ。
私は重責を託された。
豪雨の中を70数名、
全員無事に湯滝の駐車場まで誘導しなければならない。
そのころ校長先生は、小さな傘もささず、
小走りで、湯の湖で降りたバスを目指した。
その2台のバスが、戦場ヶ原へ向かって走り出し、
大通りに出たばかりだった。
ずぶ濡れの校長先生が、その車道の真ん中で両手を広げ、
バスを止めた。
事情を知ったバスは、校長先生を乗せ、
子ども達が向かっている湯滝へと急いだのだ。
あのまま降りしきる雨の中を戦場ヶ原まで歩いていたなら、
それを想像すると、今も校長先生の決断に頭が下がる。
③
6歳違いの姉夫婦が、東京旅行に来た。
ぜひ日光へ行きたいとのことだったので、
マイカーで案内した。
宿泊の予定がないので、慌ただしく名所巡りをして、
名物のゆば懐石を食べた。
そして最後に、明るい義兄ならきっと大笑いするだろうと、
老舗の羊羹店へ案内した。
車を降り、3人でその店に入った。
すると、年老いた店主が大きなガラスケースの奥に立っていた。
私たちを見るなり、
「羊羹なら、もうない。明日だ、明日!」。
私は何度もその店で羊羹を買っていた。
竹皮に包んだ本格的なもので、実に美味しいのだ。
だから、店主への対応は心得ていた。
「そうですか。でも、
わざわざこちらの羊羹をおみやげにと、
立ち寄ったんです。」
「どこからきたんだ?」
「私は、千葉から、こっちの2人は北海道からです。」
「そうか。何本いるんだ。」
「3本でいいです。」
「おーい、3本用意してやれ。
今持ってくるから」。
その後、店の奥から綺麗に包装された羊羹3本が運ばれてくる。
料金を払い、客が頭をさげ、退店するのだ。
店を出て、車のドアをしめるなり、
案の定、「あんな商売ってあるのか!」と、
義兄は大声で笑い出した。
一夜にして 雪景色
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