最初に、現職の頃に書いた『学習の内発的動機』と題する一文を、
転記する。
* * * * * *
『5年生を担任していた時のことです。
ある子からこんな質問をされました。
「先生、1年生が育てているアサガオを見ていて気づいたんですけど、
アサガオのつるは、時計と同じ向きに支柱に巻きつきながら、
伸びていくと思いますか。
それとも反対方向に巻きついて伸びていくと思いますか。
あのね、ほとんどのアサガオは、
時計と反対回りの方向に伸びでいるんです。
先生、どうしてなんですか。」
私は、全くそんなことに気づかなかったので、
「さあ、ちょっとわからないな。先生も少し調べてみるね」
と、約束しました。
そして、あるものの本を読んでみると、
カタツムリも時計と反対回りの巻貝を背負っているとありました。
そこで私は後日、その子に
「アサガオだけでなく、カタツムリの巻貝も時計と反対回りなんだよ。
これって地球の自転(北極と南極を結んだ地軸を中心に一日一回転すること)と、
関係があるんじゃないかな。」
と、投げかけてみました。
「へえ、そうなのかな。」と、その子は目を輝かし、
「本当がどうか調べてみます。」と大変興味を示しました。
数日して、彼は
「先生、地球の自転と関連があるという考え方は、多くの問題があって、
決して正しいとは言えないようです。
でも、なぜ時計と反対向きなのか、やはり不思議です。」
と、興奮気味でした。
子供は時として、
私たち大人では決して気付かないような事象をとらえ、
大人顔負けの観察や発見をすることがままあります。
そして、ものすごいエネルギーでそれに興味を示し、
ねばり強く探求していきます。
子供のそんなエネルギーを支えているものは、
「あれ不思議だな」「なぜだろう」「どうして」
「やってみたいなあ」「できそうだぞ」
と言った子供自身の体験や実感に根ざした、
子供の内面から沸き上がってきた学習への興味・関心なのです。
私たちはそれを『学習の内発的動機』と言っていますが、
そのような動機によって進められた学習は、
生涯にわたって腐食化することなく、
貴重な財産としてその子の中に残っていくものです。
先生や家の人に誉められるから、あるいは叱られるから、
そのような動機でする学習とは、
雲泥の差があると言ってもいいでしょう。
子供の内なる学習への動機をどう揺り動かすか。
それをどのようにして支援していくのか。
それは、教員に課せられた大きなテーマであります。』
* * * * * *
上記の一文に、若干の解説をさせてもらう。
私たちは、『子供自身の体験や実感に根ざした、
子供の内面から沸き上がってきた学習への興味・関心』を、
学習への『内発的動機』と言ってきた。
それに対して、
『先生や家の人に誉められるから、
あるいは叱られるから、そのような動機でする学習』を、
『外発的動機』とした。
テストで100点を取ったら、
「ディズニーランドに行けるから・・・」
「お小遣いがもらえるから・・・」、
このようなご褒美を得るための学習は、
典型的な『外発的動機』によるものである。
この動機は、他者からの誉めること、叱ること、
ご褒美などがなくなると、
いっきに学習が停滞してしまうのだ。
それに比べ、内発的動機は、
その子自身の興味・関心に基づく学習である。
自らが抱いた動機によって進められた学習だからこそ、
楽しく、粘り強いものになる。
つまり、学習活動の本来のあり方は、
外発的動機ではなく、
内発的動機によるものであるべきなのだ。
しかし、学習本来の姿である内発的動機は、
時として外発的動機の力を必要とすることがある。
ここでは、そのことを強調したい。
3つほど、例をあげる。
①
先日、ピンク色のワンピースと赤い靴の小学生を見た。
母親と手をつなぎ、市内の小さなホールに入っていった。
ピアノの発表会が開催されていた。
この女の子もピアノの先生も、
発表会のために、きっと練習にも熱が入ったことと思う。
それが、上達へとつながっているに違いない。
発表会があるのとないのでは、
練習への取り組み方に大きな違いができる。
そんなくり返しが、
ピアノへの向き合い方を変える。
「もっとうまく弾けるようになりたい。」
そんな想いは、
ピアノ発表会等という機会を通して生まれるのではないだろうか。
②
3年前から、4月に『伊達ハーフマラソン』、
5月に『洞爺湖マラソン大会』、6月に『八雲ミルクロードレース』、
9月に『旭川ハーフマラソン』、
そして11月に『江東シーサイドマラソン』にエントリーしてきた。
マラソン大会に参加し、そこで完走したい。
そんな目標があったから、
週に3,4回のジョギングを続けてこられたと思う。
当初、退職後の生活リズムと健康維持のためのジョギングだった。
それを、今日まで継続させ、体力を保ってこられたのは、
「あのマラソン大会で走りたい。」
そんな気持ちがあったからに、他ならない。
③
現職の頃から、旅行にはスケッチブックを欠かさない同僚がいた。
「ちょっと待って。」
よく旅先の名所で、私たち同行者を待たせ、ひんしゅくを買った。
その彼が、退職後、本格的に油絵を描き始めた。
絵画サークルに参加し、
先生から熱心に指導を受けるようになった。
元来、描くことが好きだったからか、才能があったからか、
指導者がよかったからか、
いくつかの公募展で、素晴らしい賞を頂いた。
彼は今、大きなキャンバスに向かっている。
きっと、公募展での受賞が、
彼を勇気づけ、今に至っているのだと思う。
さて、3つの例を記した。
ピアノ発表会も、マラソン大会も、公募展も、
いわばイベントである。
それに参加することで、
ピアノや絵画の上達、体力向上の力になったのである。
つまりは、イベントという外発的な動機がしっかりと機能すると、
より高みを目指したいと言った内発的動機を、
揺り動かすことができるのだ。
『誉められたり、叱っられたり、励まされたり』
そして
『発表会の舞台に立ったたり』
『マラソン大会で走ったり』
『公募展で受賞を目指したり』。
そんな外発的な動機の手助けを受けながら、
子供も大人も、自らのの目標に向かって、
歩を進めることができるのだと思う。
伊達・大雄寺にあった秋
転記する。
* * * * * *
『5年生を担任していた時のことです。
ある子からこんな質問をされました。
「先生、1年生が育てているアサガオを見ていて気づいたんですけど、
アサガオのつるは、時計と同じ向きに支柱に巻きつきながら、
伸びていくと思いますか。
それとも反対方向に巻きついて伸びていくと思いますか。
あのね、ほとんどのアサガオは、
時計と反対回りの方向に伸びでいるんです。
先生、どうしてなんですか。」
私は、全くそんなことに気づかなかったので、
「さあ、ちょっとわからないな。先生も少し調べてみるね」
と、約束しました。
そして、あるものの本を読んでみると、
カタツムリも時計と反対回りの巻貝を背負っているとありました。
そこで私は後日、その子に
「アサガオだけでなく、カタツムリの巻貝も時計と反対回りなんだよ。
これって地球の自転(北極と南極を結んだ地軸を中心に一日一回転すること)と、
関係があるんじゃないかな。」
と、投げかけてみました。
「へえ、そうなのかな。」と、その子は目を輝かし、
「本当がどうか調べてみます。」と大変興味を示しました。
数日して、彼は
「先生、地球の自転と関連があるという考え方は、多くの問題があって、
決して正しいとは言えないようです。
でも、なぜ時計と反対向きなのか、やはり不思議です。」
と、興奮気味でした。
子供は時として、
私たち大人では決して気付かないような事象をとらえ、
大人顔負けの観察や発見をすることがままあります。
そして、ものすごいエネルギーでそれに興味を示し、
ねばり強く探求していきます。
子供のそんなエネルギーを支えているものは、
「あれ不思議だな」「なぜだろう」「どうして」
「やってみたいなあ」「できそうだぞ」
と言った子供自身の体験や実感に根ざした、
子供の内面から沸き上がってきた学習への興味・関心なのです。
私たちはそれを『学習の内発的動機』と言っていますが、
そのような動機によって進められた学習は、
生涯にわたって腐食化することなく、
貴重な財産としてその子の中に残っていくものです。
先生や家の人に誉められるから、あるいは叱られるから、
そのような動機でする学習とは、
雲泥の差があると言ってもいいでしょう。
子供の内なる学習への動機をどう揺り動かすか。
それをどのようにして支援していくのか。
それは、教員に課せられた大きなテーマであります。』
* * * * * *
上記の一文に、若干の解説をさせてもらう。
私たちは、『子供自身の体験や実感に根ざした、
子供の内面から沸き上がってきた学習への興味・関心』を、
学習への『内発的動機』と言ってきた。
それに対して、
『先生や家の人に誉められるから、
あるいは叱られるから、そのような動機でする学習』を、
『外発的動機』とした。
テストで100点を取ったら、
「ディズニーランドに行けるから・・・」
「お小遣いがもらえるから・・・」、
このようなご褒美を得るための学習は、
典型的な『外発的動機』によるものである。
この動機は、他者からの誉めること、叱ること、
ご褒美などがなくなると、
いっきに学習が停滞してしまうのだ。
それに比べ、内発的動機は、
その子自身の興味・関心に基づく学習である。
自らが抱いた動機によって進められた学習だからこそ、
楽しく、粘り強いものになる。
つまり、学習活動の本来のあり方は、
外発的動機ではなく、
内発的動機によるものであるべきなのだ。
しかし、学習本来の姿である内発的動機は、
時として外発的動機の力を必要とすることがある。
ここでは、そのことを強調したい。
3つほど、例をあげる。
①
先日、ピンク色のワンピースと赤い靴の小学生を見た。
母親と手をつなぎ、市内の小さなホールに入っていった。
ピアノの発表会が開催されていた。
この女の子もピアノの先生も、
発表会のために、きっと練習にも熱が入ったことと思う。
それが、上達へとつながっているに違いない。
発表会があるのとないのでは、
練習への取り組み方に大きな違いができる。
そんなくり返しが、
ピアノへの向き合い方を変える。
「もっとうまく弾けるようになりたい。」
そんな想いは、
ピアノ発表会等という機会を通して生まれるのではないだろうか。
②
3年前から、4月に『伊達ハーフマラソン』、
5月に『洞爺湖マラソン大会』、6月に『八雲ミルクロードレース』、
9月に『旭川ハーフマラソン』、
そして11月に『江東シーサイドマラソン』にエントリーしてきた。
マラソン大会に参加し、そこで完走したい。
そんな目標があったから、
週に3,4回のジョギングを続けてこられたと思う。
当初、退職後の生活リズムと健康維持のためのジョギングだった。
それを、今日まで継続させ、体力を保ってこられたのは、
「あのマラソン大会で走りたい。」
そんな気持ちがあったからに、他ならない。
③
現職の頃から、旅行にはスケッチブックを欠かさない同僚がいた。
「ちょっと待って。」
よく旅先の名所で、私たち同行者を待たせ、ひんしゅくを買った。
その彼が、退職後、本格的に油絵を描き始めた。
絵画サークルに参加し、
先生から熱心に指導を受けるようになった。
元来、描くことが好きだったからか、才能があったからか、
指導者がよかったからか、
いくつかの公募展で、素晴らしい賞を頂いた。
彼は今、大きなキャンバスに向かっている。
きっと、公募展での受賞が、
彼を勇気づけ、今に至っているのだと思う。
さて、3つの例を記した。
ピアノ発表会も、マラソン大会も、公募展も、
いわばイベントである。
それに参加することで、
ピアノや絵画の上達、体力向上の力になったのである。
つまりは、イベントという外発的な動機がしっかりと機能すると、
より高みを目指したいと言った内発的動機を、
揺り動かすことができるのだ。
『誉められたり、叱っられたり、励まされたり』
そして
『発表会の舞台に立ったたり』
『マラソン大会で走ったり』
『公募展で受賞を目指したり』。
そんな外発的な動機の手助けを受けながら、
子供も大人も、自らのの目標に向かって、
歩を進めることができるのだと思う。
伊達・大雄寺にあった秋
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