① 6月に結婚式をした。
広さ3Kの新築賃貸団地で暮らし始めた。
12月、年賀状は連名で出すことにした。
既製のものより、オリジナルなものがいいとなった。
相談を重ねた結果、
私が文面を考え、
それを家内が手書きすることにした。
印刷と宛名書きは共同作業でと・・・。
1年目と2年目は、試行錯誤が続き、
3年目に、現在と同じようなスタイルになった。
私は文面を詩の形式にし、
家内は詩にあった書体にした。
それが、思いのほか好評だった。
詩に対しも書体に対しも、嬉しい声が届き、
意を強くした。
とうとう今の今まで、
「代わり映えしないと思われても構わない」と、
そのままのスタイルを貫き通してきた。
② スタイルは同じでも、変わったことがあった。
4、5年すると『プリントゴッコ』が発売になった。
自宅で年賀状の印刷ができるようになった。
それまでは、休日に学校の謄写版を借用し、
印刷していた。
それだけでなく、『プリントゴッコ』は実に便利だった。
一大改革であった。
今まで、家内はろう原紙に鉄筆で原版を書いていたが、
紙面の文字をそのまま印刷できるようになった。
その上、自宅の居間ででもどこででも、
何枚でも印刷できるのだ。
だが、謄写版同様、
印刷は1枚1枚の手作業に変わりはなかった。
ところが、我が家ではその手作業も変化していった。
2人の子どもは、年齢と共に手助けするようになった。
プリントゴッコの印刷台に年賀はがきを置く人、
プリントゴッコの原版枠を台に押しつけて印刷する人、
印刷が終わった年賀状を台から取り出す人、
最後は、できた年賀状を並べて乾かす人。
4人が手分けをして、流れ作業で印刷した。
それは、子どもが小学生になる前から始まり、
高校生になってからも、我が家の恒例行事になった。
やがて、長男も二男も自立していった。
時を同じくするように、パソコンが普及した。
年賀状印刷に、人手も『プリントゴッコ』も不要になった。
家内が書いた原版は、そのままパソコンに取り込むことができた。
後は、プリンター任せ。
時々、年賀はがきの補給をするだけ。
印刷の人手は、私だけで十分になてしまった。
③ 印刷作業の変化の他に、
もう1つ変わったことがあった。
当地で暮らし始めて、3,4年が過ぎた頃だった。
郵政の民営化が段階的に進んでいた。
年賀はがきが発売になる直前だった。
インターホンが鳴った。
初めて見る郵便局員さんだった。
年賀はがきの予約販売をしていると言う。
「何枚でもいいですから、
予約注文をしてほしいのですが・・・」
頭が低くく、人当たりのいい方だった。
民営化で、こんな営業努力までするように
なったのかと驚いた。
わざわざ郵便局まで行かなくて済むのならと、
購入枚数の予約をした。
喜び顔で帰った彼は約束の日に、
注文した年賀はがきとサービス品のティッシュゥ等を持ってきた。
それから毎年、
彼はその時期になるとインターホンを押した。
我が家の年賀はがきは、
買いに行くものから、
届けてもらうものに変わり、定着した。
ところがある年、民営化に伴い従業員には、
過剰なノルマが課せられていたと報道があった。
ノルマに対する彼の努力だったと知った。
その報道を機に、ノルマは改善されたと言う。
だからもう彼は現れないと思った。
なのに、その後も彼はインターホンを押し、
忙しい年は、郵送で注文枚数を尋ねてきた。
そして、必ず発売日初日に、
変わらない人当たりのいい顔で、
年賀はがきを届けてくれている。
今年、私は玄関に顔を出さなかった。
すると、家内に「ご主人によろしく」と言って帰っていった。
④ さて、今年も年の瀬である。
指を折って、この我が家の恒例を数えてみた。
なんと、50回目だと気づいた。
驚きと共にここまで継続できた幸運を、
しっかり噛みしめたいと思った。
エンドレスなどあり得ないと知りつつも、
1年また1年と、今後も回を重さねて行きたいと強く思った。
50の節目に特段の企画は思いつかない。
遊び心・いたずら半分で、年賀状の詩ベスト3を記す。
≪1991年≫
うねりのそばで
晩春の急斜面を走る雪崩のように
東西ドイツが統一国家を形成した
燎原の火のように
東欧諸国が次々と一党独裁を放棄した
一つの神話がくずれていく
人類の歴史が新しいページを
作ろうとしている
しかし 今 ここでは
石油ストーブのファンの音を聞きながら
真四角のテーブルに四人がむかう
今日こそはと腕まくりする中一と
時計を気にしながら
それでもマイペースの母と
音もれするヘッドホーンをあてて
余裕の高一と
今までの成績に一応目を通し
うなずく父と
慌ただしい日と慌ただしい日の合間
つかのまの団らん
”ポン“ ”チー“ ”リーチ“の
声がとびかう
歴史の大きなうねりをよそに
今年の正月は
きっと これで過ぎてしまうであろう
それがいい それでいいと
言いあいながら
≪2006年≫
海と風と凧と
ある日 二人の息子と
浜辺まで 凧上げに
微風の中で海は
わずかに波立っていた
凧は風をつかみ
高く舞い上がり
凧糸が上空の風を
私の手に伝えてくれた
「ほら しっかり握って」と
息子に凧をわたす
「パパ 風は見えないけど
こうして伝わってくるんだね」
下の子も凧糸をつかみ
大きくうなずく
もう20数年も前のこと
でも海と風と凧と
それは昨日のことのように
新鮮で今も驚き
見えなくても感じる
そんな大切なことを
これからも心して過ごしたい
≪2019年≫
色 彩 豊 富
赤や黄 青色の風船を膨らませたい
その風船が誰かに届くといい
だから
八雲の放牧牛が見ているマラソン道を
ひとり淡々と走っていた
月数回だがキーボードと向き合い
足もとに想いを載せて綴ってみた
突然 この街で出逢った人々との
小さな物語を語る機会に恵まれた
なので
やがて来る衰えなど 無関心
無理しないでの声など 完全無視
まして老いの手解きなど 無礼千万
そして 今年も
ピンクや黄緑 真っ白な風船を
いっぱい膨らませ空へ 遠くへ
大型遊具の完成 ~歴史の杜公園
※次回のブログ更新予定は12月30日(土)です
広さ3Kの新築賃貸団地で暮らし始めた。
12月、年賀状は連名で出すことにした。
既製のものより、オリジナルなものがいいとなった。
相談を重ねた結果、
私が文面を考え、
それを家内が手書きすることにした。
印刷と宛名書きは共同作業でと・・・。
1年目と2年目は、試行錯誤が続き、
3年目に、現在と同じようなスタイルになった。
私は文面を詩の形式にし、
家内は詩にあった書体にした。
それが、思いのほか好評だった。
詩に対しも書体に対しも、嬉しい声が届き、
意を強くした。
とうとう今の今まで、
「代わり映えしないと思われても構わない」と、
そのままのスタイルを貫き通してきた。
② スタイルは同じでも、変わったことがあった。
4、5年すると『プリントゴッコ』が発売になった。
自宅で年賀状の印刷ができるようになった。
それまでは、休日に学校の謄写版を借用し、
印刷していた。
それだけでなく、『プリントゴッコ』は実に便利だった。
一大改革であった。
今まで、家内はろう原紙に鉄筆で原版を書いていたが、
紙面の文字をそのまま印刷できるようになった。
その上、自宅の居間ででもどこででも、
何枚でも印刷できるのだ。
だが、謄写版同様、
印刷は1枚1枚の手作業に変わりはなかった。
ところが、我が家ではその手作業も変化していった。
2人の子どもは、年齢と共に手助けするようになった。
プリントゴッコの印刷台に年賀はがきを置く人、
プリントゴッコの原版枠を台に押しつけて印刷する人、
印刷が終わった年賀状を台から取り出す人、
最後は、できた年賀状を並べて乾かす人。
4人が手分けをして、流れ作業で印刷した。
それは、子どもが小学生になる前から始まり、
高校生になってからも、我が家の恒例行事になった。
やがて、長男も二男も自立していった。
時を同じくするように、パソコンが普及した。
年賀状印刷に、人手も『プリントゴッコ』も不要になった。
家内が書いた原版は、そのままパソコンに取り込むことができた。
後は、プリンター任せ。
時々、年賀はがきの補給をするだけ。
印刷の人手は、私だけで十分になてしまった。
③ 印刷作業の変化の他に、
もう1つ変わったことがあった。
当地で暮らし始めて、3,4年が過ぎた頃だった。
郵政の民営化が段階的に進んでいた。
年賀はがきが発売になる直前だった。
インターホンが鳴った。
初めて見る郵便局員さんだった。
年賀はがきの予約販売をしていると言う。
「何枚でもいいですから、
予約注文をしてほしいのですが・・・」
頭が低くく、人当たりのいい方だった。
民営化で、こんな営業努力までするように
なったのかと驚いた。
わざわざ郵便局まで行かなくて済むのならと、
購入枚数の予約をした。
喜び顔で帰った彼は約束の日に、
注文した年賀はがきとサービス品のティッシュゥ等を持ってきた。
それから毎年、
彼はその時期になるとインターホンを押した。
我が家の年賀はがきは、
買いに行くものから、
届けてもらうものに変わり、定着した。
ところがある年、民営化に伴い従業員には、
過剰なノルマが課せられていたと報道があった。
ノルマに対する彼の努力だったと知った。
その報道を機に、ノルマは改善されたと言う。
だからもう彼は現れないと思った。
なのに、その後も彼はインターホンを押し、
忙しい年は、郵送で注文枚数を尋ねてきた。
そして、必ず発売日初日に、
変わらない人当たりのいい顔で、
年賀はがきを届けてくれている。
今年、私は玄関に顔を出さなかった。
すると、家内に「ご主人によろしく」と言って帰っていった。
④ さて、今年も年の瀬である。
指を折って、この我が家の恒例を数えてみた。
なんと、50回目だと気づいた。
驚きと共にここまで継続できた幸運を、
しっかり噛みしめたいと思った。
エンドレスなどあり得ないと知りつつも、
1年また1年と、今後も回を重さねて行きたいと強く思った。
50の節目に特段の企画は思いつかない。
遊び心・いたずら半分で、年賀状の詩ベスト3を記す。
≪1991年≫
うねりのそばで
晩春の急斜面を走る雪崩のように
東西ドイツが統一国家を形成した
燎原の火のように
東欧諸国が次々と一党独裁を放棄した
一つの神話がくずれていく
人類の歴史が新しいページを
作ろうとしている
しかし 今 ここでは
石油ストーブのファンの音を聞きながら
真四角のテーブルに四人がむかう
今日こそはと腕まくりする中一と
時計を気にしながら
それでもマイペースの母と
音もれするヘッドホーンをあてて
余裕の高一と
今までの成績に一応目を通し
うなずく父と
慌ただしい日と慌ただしい日の合間
つかのまの団らん
”ポン“ ”チー“ ”リーチ“の
声がとびかう
歴史の大きなうねりをよそに
今年の正月は
きっと これで過ぎてしまうであろう
それがいい それでいいと
言いあいながら
≪2006年≫
海と風と凧と
ある日 二人の息子と
浜辺まで 凧上げに
微風の中で海は
わずかに波立っていた
凧は風をつかみ
高く舞い上がり
凧糸が上空の風を
私の手に伝えてくれた
「ほら しっかり握って」と
息子に凧をわたす
「パパ 風は見えないけど
こうして伝わってくるんだね」
下の子も凧糸をつかみ
大きくうなずく
もう20数年も前のこと
でも海と風と凧と
それは昨日のことのように
新鮮で今も驚き
見えなくても感じる
そんな大切なことを
これからも心して過ごしたい
≪2019年≫
色 彩 豊 富
赤や黄 青色の風船を膨らませたい
その風船が誰かに届くといい
だから
八雲の放牧牛が見ているマラソン道を
ひとり淡々と走っていた
月数回だがキーボードと向き合い
足もとに想いを載せて綴ってみた
突然 この街で出逢った人々との
小さな物語を語る機会に恵まれた
なので
やがて来る衰えなど 無関心
無理しないでの声など 完全無視
まして老いの手解きなど 無礼千万
そして 今年も
ピンクや黄緑 真っ白な風船を
いっぱい膨らませ空へ 遠くへ
大型遊具の完成 ~歴史の杜公園
※次回のブログ更新予定は12月30日(土)です
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