▼ 初めて京都を訪ねたのは、高校の修学旅行だった。
全く古都に興味などなかった。
でも、東京から京都までの新幹線にはワクワクした。
車窓から、これまた初めての富士山を見た。
その雄大な美しさは、今も新鮮な驚きのままである。
京都周辺は、観光バスによる団体見学で、
もっぱら居眠りばかり。
街並みも景色も目に入らなかった。
だが、滋賀の石山寺と苔寺で名高い西芳寺だけは、
記憶に残った。
2つのお寺に流れる静けさと凜とした空気感の魅力を、
17歳なりに感じたらしい。
「いつか、もう一度訪ねたい。」
お寺を離れる時、そうふり返った気がする。
しかし、それは実現しないままである。
▼ 2度目は、昭和48年のことだ。
2泊3日の新婚旅行である。
東京都内での挙式と披露宴の後、
そのまま会場から車で東京駅へ行き、京都へ向かった。
実は2人だけの旅ではなかった。
はるばる私たちの結婚式のために北海道から上京した、
私と家内の両親も一緒、6人による旅行だった。
ホテルは、3部屋を用意したが、
京都観光は、2台のハイヤーを予約した。
私と家内が分乗し、両親に付き添うことになった。
ちょっと、変な気がしたが、致し方なかった。
京都に詳しい先輩教員が、観光ルートを作ってくれた。
清水寺、金閣寺、嵐山、嵯峨野など、
昼食を挟んで巡った。
龍安寺の庭に着いた時、4人ともドッカと座り込んだ。
枯山水の方丈庭園を見ながら、互いに
「いいところですね。」と言い合っていた。
「これでよかった」と安堵した。
北海道から遠く離れた所での結婚に、
諸手を挙げては祝っていなかった家内の父だった。
この旅行を通して、私と随分距離が縮んだ。
▼ 結婚して2年目の夏だ。
まだヨチヨチ歩きの長男を連れて、京都に行った。
和風旅館を予約していたものの、
計画のない旅だった。
新幹線で京都駅に降りたが、
旅館に行くには時間があった。
「こんな時は思い切って、タクシーに乗り込み、
運転手任せにしよう。」
後部座席に着いて、
「小1時間ほどあるので、
どこか京都らしい所へ案内して下さい。」
きっと驚くと思いつつ、そう切り出した。
ベテラン運転手さんは、しばらく発進をためらった。
小さな子をつれた家族3人を、
バックミラーからくり返し見た。
「少し遠方でもよろしいですか。」
私に念を押して、走り出した。
そして、運転手さんはハンドルを握りながら、
こうガイドした。
「これから、お客様をご案内するのは、
洛北にあります『シセンドウ』と言う所です。
ポエムの詩、仙人の仙、お堂の堂と書いて、
詩仙堂です。
家康公に仕えた文人の、
石川丈山という方が隠居した所です。
失礼ですが、文学好きの方と思いましたので、
そちらがいいかと。」
一度に興味が湧いた。
宮本武蔵の決闘の地・一乗寺下り松の横を
抜けて、上り坂を進む。
その坂の途中で下車すると、詩仙堂があった。
思いのほか小さな山門をくぐる。
若干薄暗い竹林に囲まれた石畳の参道を進む。
それを左に折れたところに玄関があった。
拝観料を払って入ると、すぐに詩仙の間だ。
私は、その先にある書院の間が好きになった。
そこに座り、
凹凸窠(でこぼこした土地に建てた住居)にある
庭園を見た。
次第に、すべての喧騒が私から消え、
透明感だけにしてくれた。
ここでは『僧都』というらしいが、
静寂の庭に、思い出したかのように「鹿威し」が響いた。
先人が残した文化の継承に、
癒やされる一時があった。
あの時の運転手さんには、感謝しきれない。
あれから何度京都を訪ねたろうか。
その都度、欠かさず私の足は、
詩仙堂に向かった。
▼ 2年前のブロクに「喰わず嫌い『ウナギ』編」を記したが、
40歳代半ばまで、私は鰻を口にしなかった。
従って、京都のこの店でしか食べられない鰻料理に、
目を輝かせたのは、50歳前後のことだと思う。
情報は、京都旅行のガイドブックだ。
7条通り、三十三間堂そばにある、
老舗料理店『わらじや』がそれである。
創業400年、豊臣秀吉が草鞋をぬいで休憩した場所から、
この店名がついたらしい。
メニューは、鰻のコース料理1つだけ。
抹茶に落雁、先付けが出てから、
この店でしか食べられない『うなべ』と
『う雑炊』が出てくる。
中骨を抜いた鰻のぶつ切りに、
麩と九条ネギだけのさっぱりとした『うなべ』。
その後に、別の鍋で今度は、開いた白焼きの鰻と、
ゴボウや人参、椎茸、餅、溶き卵、
ご飯の『う雑炊』が出てくる。
『うなべ』とは違う味付けで、
私はどちらも好きだ。
最後は、締めの果物で、口直し。
珍しい鰻の食べ方に、好みは分かれるのだろう。
私は、おもむきの違う鰻料理に、
京都ならではの奥行きを感じるのだが・・・。
いつの間にか フキノトウ
全く古都に興味などなかった。
でも、東京から京都までの新幹線にはワクワクした。
車窓から、これまた初めての富士山を見た。
その雄大な美しさは、今も新鮮な驚きのままである。
京都周辺は、観光バスによる団体見学で、
もっぱら居眠りばかり。
街並みも景色も目に入らなかった。
だが、滋賀の石山寺と苔寺で名高い西芳寺だけは、
記憶に残った。
2つのお寺に流れる静けさと凜とした空気感の魅力を、
17歳なりに感じたらしい。
「いつか、もう一度訪ねたい。」
お寺を離れる時、そうふり返った気がする。
しかし、それは実現しないままである。
▼ 2度目は、昭和48年のことだ。
2泊3日の新婚旅行である。
東京都内での挙式と披露宴の後、
そのまま会場から車で東京駅へ行き、京都へ向かった。
実は2人だけの旅ではなかった。
はるばる私たちの結婚式のために北海道から上京した、
私と家内の両親も一緒、6人による旅行だった。
ホテルは、3部屋を用意したが、
京都観光は、2台のハイヤーを予約した。
私と家内が分乗し、両親に付き添うことになった。
ちょっと、変な気がしたが、致し方なかった。
京都に詳しい先輩教員が、観光ルートを作ってくれた。
清水寺、金閣寺、嵐山、嵯峨野など、
昼食を挟んで巡った。
龍安寺の庭に着いた時、4人ともドッカと座り込んだ。
枯山水の方丈庭園を見ながら、互いに
「いいところですね。」と言い合っていた。
「これでよかった」と安堵した。
北海道から遠く離れた所での結婚に、
諸手を挙げては祝っていなかった家内の父だった。
この旅行を通して、私と随分距離が縮んだ。
▼ 結婚して2年目の夏だ。
まだヨチヨチ歩きの長男を連れて、京都に行った。
和風旅館を予約していたものの、
計画のない旅だった。
新幹線で京都駅に降りたが、
旅館に行くには時間があった。
「こんな時は思い切って、タクシーに乗り込み、
運転手任せにしよう。」
後部座席に着いて、
「小1時間ほどあるので、
どこか京都らしい所へ案内して下さい。」
きっと驚くと思いつつ、そう切り出した。
ベテラン運転手さんは、しばらく発進をためらった。
小さな子をつれた家族3人を、
バックミラーからくり返し見た。
「少し遠方でもよろしいですか。」
私に念を押して、走り出した。
そして、運転手さんはハンドルを握りながら、
こうガイドした。
「これから、お客様をご案内するのは、
洛北にあります『シセンドウ』と言う所です。
ポエムの詩、仙人の仙、お堂の堂と書いて、
詩仙堂です。
家康公に仕えた文人の、
石川丈山という方が隠居した所です。
失礼ですが、文学好きの方と思いましたので、
そちらがいいかと。」
一度に興味が湧いた。
宮本武蔵の決闘の地・一乗寺下り松の横を
抜けて、上り坂を進む。
その坂の途中で下車すると、詩仙堂があった。
思いのほか小さな山門をくぐる。
若干薄暗い竹林に囲まれた石畳の参道を進む。
それを左に折れたところに玄関があった。
拝観料を払って入ると、すぐに詩仙の間だ。
私は、その先にある書院の間が好きになった。
そこに座り、
凹凸窠(でこぼこした土地に建てた住居)にある
庭園を見た。
次第に、すべての喧騒が私から消え、
透明感だけにしてくれた。
ここでは『僧都』というらしいが、
静寂の庭に、思い出したかのように「鹿威し」が響いた。
先人が残した文化の継承に、
癒やされる一時があった。
あの時の運転手さんには、感謝しきれない。
あれから何度京都を訪ねたろうか。
その都度、欠かさず私の足は、
詩仙堂に向かった。
▼ 2年前のブロクに「喰わず嫌い『ウナギ』編」を記したが、
40歳代半ばまで、私は鰻を口にしなかった。
従って、京都のこの店でしか食べられない鰻料理に、
目を輝かせたのは、50歳前後のことだと思う。
情報は、京都旅行のガイドブックだ。
7条通り、三十三間堂そばにある、
老舗料理店『わらじや』がそれである。
創業400年、豊臣秀吉が草鞋をぬいで休憩した場所から、
この店名がついたらしい。
メニューは、鰻のコース料理1つだけ。
抹茶に落雁、先付けが出てから、
この店でしか食べられない『うなべ』と
『う雑炊』が出てくる。
中骨を抜いた鰻のぶつ切りに、
麩と九条ネギだけのさっぱりとした『うなべ』。
その後に、別の鍋で今度は、開いた白焼きの鰻と、
ゴボウや人参、椎茸、餅、溶き卵、
ご飯の『う雑炊』が出てくる。
『うなべ』とは違う味付けで、
私はどちらも好きだ。
最後は、締めの果物で、口直し。
珍しい鰻の食べ方に、好みは分かれるのだろう。
私は、おもむきの違う鰻料理に、
京都ならではの奥行きを感じるのだが・・・。
いつの間にか フキノトウ
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