いい教師の条件は何かと問われたら、いくつもあるように思う。
教師としての強い使命感や、多種多彩な教育技術の習得などもそうであるが、
私は、『教材を見る目』と『子どもを見る目』の2つの力を挙げたい。
特に、私は『子どもを見る目』を重視してきた。
『子どもを見る目』とは、
子ども理解(幼児理解・児童理解・生徒理解)のことである。
子どもに限らず人間は誰でも、
自分を理解してくれる人、
言い換えると、自分を分かってくれる人の存在を求めている。
そんな存在があれば、
人は勇気をもって、自分の持てる力を存分に発揮することができるのである。
よって、教師には、一人一人の子どもを理解することが求められており、
その子を理解する教師の存在が、その子の持てる力を発揮させることになる。
つまりは、子どもの成長のエネルギー源は、子ども理解にあると言っていい。
だから、先人は
『教育は子ども理解に始まり、子ども理解に終わる。』
と、言う言葉を残したのではなかろうか。
一口に、子どもを理解する目と言っても、
その目をどのように鍛え、高めていけばいいのか。
それは簡単なことではない。
教師の一方的な思い込みで子どもを見ることや、
決めつけは、あってはならないことである。
子どもを見る目には、客観性が求められる。
そして、子どものあるがまま、ありのままを理解することなのである。
一人一人の子どもを理解する手法として、
教師が作った設問やアンケートに、子どもが答える方法がある。
確かに一人一人の子どもが回答しているのだから、
そこには偽りはないように思う。
しかし、それは、子どもの全てに対する理解ではない。
教師が求める問いに対するものであって、
子どものある側面の理解だけなのである。
このことは、教師が用意したチェックリストによる子どもの行動観察も同様である。
私の言う子ども理解とは、その子の全てを理解することをさす。
私は、若い頃にKJ法による、
子どもの行動観察と子ども理解を試みたことがある。
ある一人の子の行動を観察し、
その子の10日分の行動特徴を全てカード化し、その子の理解へと迫った。
膨大な行動のカードができ、それを構造化して、
一人の子の行動特徴と特性のおおよそをつかむことができた。
しかし、そこまでのデータ集積と分析には予想を超える時間が必要だった。
この方法による子どもの理解は、
多忙を極める学校には馴染まないものであった。
この試みを通して、私は子どもの行動観察が、
その子を理解する大きな手掛かりになることを知った。
子どもに限らず、人間の行動とは、
その人の内面の全てではないが、その一部が表出したものである。
だから、子どもへの細やかで小まめな行動観察の継続が、
その子の理解につながると言える。
子どもの行動の集積が、その行動の真意(内面)を明らかにし、
その子の理解へと結びつくのである。
私は、日々の子どもの行動をできうる限り記録することを勧めたい。
そのためには、一人一人の子どもの行動をしっかりと見る必要がある。
今や学校もICT時代である。
職員室のマイデスクに個人用PCがある学校も少なくない。
きっと一人一人の行動を記録するプログラムもあると思う。
その日その時、心に留まったその子の行動を手軽に記録できるであろう。
その記録の積み重ねが、その子を理解する力になるのである。
担任時代、私は白紙座席表を使った。
毎日、退勤前に教室へ戻り、20分間と決めて白紙座席表に向かった。
その日1日を振り返り、
心に留まった子どもの行動を、その子の白紙の欄に短く記録した。
行動の意味や解釈などは書かず、行動のみを記した。
ところが、毎日必ず、子どもの行動が思い出せない子がいた。
白紙座席表への記録は、それが一目で分かった。
この記録を始めたころ、私は記録できない子の多さに驚いた。
そして、翌日はその子の記録ができるよう、
特にその子をよく見るようにした。
これが、私の『子どもを見る目』を育ててくれた。
行動記録の継続は、時として、
ある一人の子の行動の意味を明確にすることがあった。
今まで記録してきた行動の積み重ねが、
その関連性を明らかにし、内面の理解へと導いたのである。
子どもの理解が進んだ瞬間と言える。
私が毎日の記録を20分に限ったのは、
むやみに時間をかけると、書けない子の行動を無理矢理生み出すことになり、
その行動はさほど意味を持たないことが分かったからである。
さて、行動観察の記録とともに、上げておきたいことがもう1つある。
作家・司馬遼太郎氏は、『21世紀に生きる君たちへ』と言う一文を残している。
その中で、やさしさについて、人間は訓練によってそれを身につけると説いている。
ある人を見て、かわいそうにと思う。辛かっただろうと思う。素晴らしいと思う。
そんな思いの積み重ねが、やさしさを人の心に育てると、彼は言っていたように思った。
子ども理解も同じようなことが言える。
まずは子どもの行動をしっかりと見ることであるが、
次に、司馬さんが説くように、
喜怒哀楽を伴った共感をもって、その行動を見ることが重要なのである。
そのことが、子どもを見る私たちの感性を育てることになる。
この私たちの子どもを見る豊かな感性が、子ども理解には欠かせないのである。
なお、付け加えるなら、
最近、学校はさらに多忙に多忙が重なり、職員室での会話も少なくなっている。
しかし、職員室での同学年の先生や、同僚、先輩あるいは校長・副校長等々とかわす、
子どもについての会話から、
一人では気づかなかった子どもの姿が理解できることがしばしばある。
私は、そんな子どものことを語り合える職員室であることが、
子ども理解には重要だと思っている。

近所のねぎ畑 このまま春を待つ ひときわ美味しいねぎになる
教師としての強い使命感や、多種多彩な教育技術の習得などもそうであるが、
私は、『教材を見る目』と『子どもを見る目』の2つの力を挙げたい。
特に、私は『子どもを見る目』を重視してきた。
『子どもを見る目』とは、
子ども理解(幼児理解・児童理解・生徒理解)のことである。
子どもに限らず人間は誰でも、
自分を理解してくれる人、
言い換えると、自分を分かってくれる人の存在を求めている。
そんな存在があれば、
人は勇気をもって、自分の持てる力を存分に発揮することができるのである。
よって、教師には、一人一人の子どもを理解することが求められており、
その子を理解する教師の存在が、その子の持てる力を発揮させることになる。
つまりは、子どもの成長のエネルギー源は、子ども理解にあると言っていい。
だから、先人は
『教育は子ども理解に始まり、子ども理解に終わる。』
と、言う言葉を残したのではなかろうか。
一口に、子どもを理解する目と言っても、
その目をどのように鍛え、高めていけばいいのか。
それは簡単なことではない。
教師の一方的な思い込みで子どもを見ることや、
決めつけは、あってはならないことである。
子どもを見る目には、客観性が求められる。
そして、子どものあるがまま、ありのままを理解することなのである。
一人一人の子どもを理解する手法として、
教師が作った設問やアンケートに、子どもが答える方法がある。
確かに一人一人の子どもが回答しているのだから、
そこには偽りはないように思う。
しかし、それは、子どもの全てに対する理解ではない。
教師が求める問いに対するものであって、
子どものある側面の理解だけなのである。
このことは、教師が用意したチェックリストによる子どもの行動観察も同様である。
私の言う子ども理解とは、その子の全てを理解することをさす。
私は、若い頃にKJ法による、
子どもの行動観察と子ども理解を試みたことがある。
ある一人の子の行動を観察し、
その子の10日分の行動特徴を全てカード化し、その子の理解へと迫った。
膨大な行動のカードができ、それを構造化して、
一人の子の行動特徴と特性のおおよそをつかむことができた。
しかし、そこまでのデータ集積と分析には予想を超える時間が必要だった。
この方法による子どもの理解は、
多忙を極める学校には馴染まないものであった。
この試みを通して、私は子どもの行動観察が、
その子を理解する大きな手掛かりになることを知った。
子どもに限らず、人間の行動とは、
その人の内面の全てではないが、その一部が表出したものである。
だから、子どもへの細やかで小まめな行動観察の継続が、
その子の理解につながると言える。
子どもの行動の集積が、その行動の真意(内面)を明らかにし、
その子の理解へと結びつくのである。
私は、日々の子どもの行動をできうる限り記録することを勧めたい。
そのためには、一人一人の子どもの行動をしっかりと見る必要がある。
今や学校もICT時代である。
職員室のマイデスクに個人用PCがある学校も少なくない。
きっと一人一人の行動を記録するプログラムもあると思う。
その日その時、心に留まったその子の行動を手軽に記録できるであろう。
その記録の積み重ねが、その子を理解する力になるのである。
担任時代、私は白紙座席表を使った。
毎日、退勤前に教室へ戻り、20分間と決めて白紙座席表に向かった。
その日1日を振り返り、
心に留まった子どもの行動を、その子の白紙の欄に短く記録した。
行動の意味や解釈などは書かず、行動のみを記した。
ところが、毎日必ず、子どもの行動が思い出せない子がいた。
白紙座席表への記録は、それが一目で分かった。
この記録を始めたころ、私は記録できない子の多さに驚いた。
そして、翌日はその子の記録ができるよう、
特にその子をよく見るようにした。
これが、私の『子どもを見る目』を育ててくれた。
行動記録の継続は、時として、
ある一人の子の行動の意味を明確にすることがあった。
今まで記録してきた行動の積み重ねが、
その関連性を明らかにし、内面の理解へと導いたのである。
子どもの理解が進んだ瞬間と言える。
私が毎日の記録を20分に限ったのは、
むやみに時間をかけると、書けない子の行動を無理矢理生み出すことになり、
その行動はさほど意味を持たないことが分かったからである。
さて、行動観察の記録とともに、上げておきたいことがもう1つある。
作家・司馬遼太郎氏は、『21世紀に生きる君たちへ』と言う一文を残している。
その中で、やさしさについて、人間は訓練によってそれを身につけると説いている。
ある人を見て、かわいそうにと思う。辛かっただろうと思う。素晴らしいと思う。
そんな思いの積み重ねが、やさしさを人の心に育てると、彼は言っていたように思った。
子ども理解も同じようなことが言える。
まずは子どもの行動をしっかりと見ることであるが、
次に、司馬さんが説くように、
喜怒哀楽を伴った共感をもって、その行動を見ることが重要なのである。
そのことが、子どもを見る私たちの感性を育てることになる。
この私たちの子どもを見る豊かな感性が、子ども理解には欠かせないのである。
なお、付け加えるなら、
最近、学校はさらに多忙に多忙が重なり、職員室での会話も少なくなっている。
しかし、職員室での同学年の先生や、同僚、先輩あるいは校長・副校長等々とかわす、
子どもについての会話から、
一人では気づかなかった子どもの姿が理解できることがしばしばある。
私は、そんな子どものことを語り合える職員室であることが、
子ども理解には重要だと思っている。

近所のねぎ畑 このまま春を待つ ひときわ美味しいねぎになる
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