『20世紀エディトリアル・オデッセイ』を購入しました。サブタイトルは「時代を創った雑誌たち」。
2014年4月30日発行 著者:赤田祐一/ばるぼら 発行所:株式会社誠文堂新光社
帯には「画期的な編集とビジュアルで新たな価値観を生み出した雑誌を、関係者のインタビューと関係資料で振り返る。貴重な証言と雑誌・書籍1200点を掲載!」とあります。
この雑誌にバロン吉元先生の記事が掲載されていることを知り、Amazonに注文、昨日届きました。
正直なところ、年寄りには読みやすい本ではありません。文字が小さく、デザインに凝っているためか、青色や朱色の地に黒色の文字は、メガネを外しても夜には読めませんでした。
後半には、同人誌を中心にした漫画雑誌の紹介があり、これは素晴らしいです。さべあのま『シングル・ピジョン』についても、川本耕次さんのインタビューに出てきます。
バロン吉元先生が登場するのは、この漫画に関する部分ではありません。「バック・トゥ・ザ・フィフティ-ズ」の項の中に、インタビュー:バロン吉元「原点はアメコミ 50sアメコミに探る劇画のルーツ」が掲載されています。
2ページのインタビューですが、アメリカの雑誌に描いた短編も紹介されており、驚きました。確かにバロン吉元先生と「アメリカンタッチのコミック」との関連は深いです。少し長文になりますが、週刊誌に進出した頃の先生の言葉です。
小学時代・・・・・・
アメリカの色彩漫画本『ジャン・バル・ジャン』を見て歓喜。
それが現在の出発点となった。この頃はもっぱら『冒険ダン吉』や『ポパイ』などを模写していた。
中学時代・・・・・・
絵物語『少年王者』に熱中。この頃、絵物語の全盛期。貸本屋通いは日課となる。
柴練や城戸礼の小説等を片っぱしから読みあさる。
高校時代・・・・・・
絵物語は衰退、悲観す。うさ晴らしにスポーツ(柔道)と水彩画に没頭。
又、バアヤにつくらせたターザンのフンドシをはいて大いにエネルギーを発散。
スーパーマンの元祖であるターザンは今でも書きたい物のひとつである。
M美大時代・・・・・・
漫画の貸本屋向き単行本及び短篇誌が流行。
デザイン勉強のかたわら漫画を書きはじめる。その頃の原稿料一枚百円也。
安保騒動に運動がてら出かける。昭和36年頃。
以後・・・・・・
本格的に漫画で身を立てることを決意。現在の師、横山まさみち氏を尋ねたのもこの頃。師のユニークなストーリー構成をみっちり学ぶ。
しかし生活は苦しくアルバイトを点々。又、正確な絵を書く為にスタイル画も勉強。ロクすっぽ絵も書かないで美人モデルの顔ばかりジロジロジロジロ。実物大のマヌカンの首を手に正確にデザイン。
現在・・・・・・
単行本で生活をささえながらアメリカンタッチのコミックを研究。マンネリ化した漫画界に新風をふきこむのはこれぞとばかり活路をきりひらく。
F社刊行の『漫画ストーリー』等に発表。
(モトヤンの漫画と共に)
この文章は貸本時代の終わり頃、昭和42年の中頃に『殺し屋天使 暗黒指令』に書かれました。F社は双葉社で、『漫画ストーリー』がバロン吉元先生の週刊誌デビューの雑誌となりました。
その後、新たに創刊された『漫画アクション』に活躍の場を移し、昭和44年に「賭博師たち」の連載が始まるまで、アメリカンタッチの作品を描き続けています。
その後も、昭和55年には『ポップコーン』に雑誌の後ろから左開きで、「弧拳(Lone Fist)」を連載するなどアメコミへの挑戦を続けています。ちょうど渡米してアメリカで生活を始める直前でしょうか。
バロン吉元先生の作品研究の中で、このアメコミとの関係はあまり論じられてこなかったように思います。貴重なインタビューです。
2014年4月30日発行 著者:赤田祐一/ばるぼら 発行所:株式会社誠文堂新光社
帯には「画期的な編集とビジュアルで新たな価値観を生み出した雑誌を、関係者のインタビューと関係資料で振り返る。貴重な証言と雑誌・書籍1200点を掲載!」とあります。
この雑誌にバロン吉元先生の記事が掲載されていることを知り、Amazonに注文、昨日届きました。
正直なところ、年寄りには読みやすい本ではありません。文字が小さく、デザインに凝っているためか、青色や朱色の地に黒色の文字は、メガネを外しても夜には読めませんでした。
後半には、同人誌を中心にした漫画雑誌の紹介があり、これは素晴らしいです。さべあのま『シングル・ピジョン』についても、川本耕次さんのインタビューに出てきます。
バロン吉元先生が登場するのは、この漫画に関する部分ではありません。「バック・トゥ・ザ・フィフティ-ズ」の項の中に、インタビュー:バロン吉元「原点はアメコミ 50sアメコミに探る劇画のルーツ」が掲載されています。
2ページのインタビューですが、アメリカの雑誌に描いた短編も紹介されており、驚きました。確かにバロン吉元先生と「アメリカンタッチのコミック」との関連は深いです。少し長文になりますが、週刊誌に進出した頃の先生の言葉です。
小学時代・・・・・・
アメリカの色彩漫画本『ジャン・バル・ジャン』を見て歓喜。
それが現在の出発点となった。この頃はもっぱら『冒険ダン吉』や『ポパイ』などを模写していた。
中学時代・・・・・・
絵物語『少年王者』に熱中。この頃、絵物語の全盛期。貸本屋通いは日課となる。
柴練や城戸礼の小説等を片っぱしから読みあさる。
高校時代・・・・・・
絵物語は衰退、悲観す。うさ晴らしにスポーツ(柔道)と水彩画に没頭。
又、バアヤにつくらせたターザンのフンドシをはいて大いにエネルギーを発散。
スーパーマンの元祖であるターザンは今でも書きたい物のひとつである。
M美大時代・・・・・・
漫画の貸本屋向き単行本及び短篇誌が流行。
デザイン勉強のかたわら漫画を書きはじめる。その頃の原稿料一枚百円也。
安保騒動に運動がてら出かける。昭和36年頃。
以後・・・・・・
本格的に漫画で身を立てることを決意。現在の師、横山まさみち氏を尋ねたのもこの頃。師のユニークなストーリー構成をみっちり学ぶ。
しかし生活は苦しくアルバイトを点々。又、正確な絵を書く為にスタイル画も勉強。ロクすっぽ絵も書かないで美人モデルの顔ばかりジロジロジロジロ。実物大のマヌカンの首を手に正確にデザイン。
現在・・・・・・
単行本で生活をささえながらアメリカンタッチのコミックを研究。マンネリ化した漫画界に新風をふきこむのはこれぞとばかり活路をきりひらく。
F社刊行の『漫画ストーリー』等に発表。
(モトヤンの漫画と共に)
この文章は貸本時代の終わり頃、昭和42年の中頃に『殺し屋天使 暗黒指令』に書かれました。F社は双葉社で、『漫画ストーリー』がバロン吉元先生の週刊誌デビューの雑誌となりました。
その後、新たに創刊された『漫画アクション』に活躍の場を移し、昭和44年に「賭博師たち」の連載が始まるまで、アメリカンタッチの作品を描き続けています。
その後も、昭和55年には『ポップコーン』に雑誌の後ろから左開きで、「弧拳(Lone Fist)」を連載するなどアメコミへの挑戦を続けています。ちょうど渡米してアメリカで生活を始める直前でしょうか。
バロン吉元先生の作品研究の中で、このアメコミとの関係はあまり論じられてこなかったように思います。貴重なインタビューです。