前回のブログで記した、笹生那実さんの「『若草』物語」全3巻です。発行は「ひつじ座」、奥付には「個人誌」となっています。
『漫画の手帖』に連載された回想記に加筆修正を加えた総集編です。『漫画の手帖』は東京へ行った時に中野ブロードウェイのタコシェで探していましたが、入手できない号も多かったので、総集編の出版はうれしいです。
笹生那実(さそうなみ)さんは、1968年(昭和43年)中学生になった時に、新児童少女漫画界(新界)に参加、同年8月発行の第57号から昭和46年9月発行の第72号までの『若草』を所持しているとのこと。
「激動の時代を駆け抜けた漫画少女の実録エッセイ !!」 ご自身の当時の作品と、『若草』掲載のカットがたくさん載せられています。(ご自身の作品に対するツッコミが面白い!)
「『若草』物語」では第72号が最終巻となっていますが、前回表紙絵を載せたように、第73号が最終号となりました。発行予定通り昭和46年12月に刊行されています。編集後記に草ノ先生の10年余りの努力、とありますから、創刊は昭和30年代中頃でしょうか。
最終号の1号前、第72号です。
『若草』第72号 山田美根子特集号 昭和46年9月20日発行 今号の表紙 はざま邦
第72号は山田美根子特集号。「新界」卒業が決まると特集号が編まれたようです。これで晴れて「プロ入り」となりました。
前回のブログでふれた「残暑お見舞い」です。草のひかる先生以外は「卒業」された漫画家さんでしょうか。
最初に載っているのは杉本啓子さんです。
高階良子先生のデビュー作が掲載された『ゆめ』第2号(No.62)には「新界」の会員募集の記事が掲載されています。
「現在若木で活躍中の会員には 大岡まち子、角田まき子、杉本啓子、板垣佳子、飯塚玲子さんたちがいます。」とありますから、高階先生より前に若木デビューをされています。
杉本啓子さんのデビュー作は昭和39年発行の『こだま』10号(No.67)の「小さな小さな物語」だと思います。(表紙のNo.66は誤りです。)
矢代まさこ先生の作品掲載号ですね。
余談になりますが、昭和39年(1964年)の矢代まさこ先生の創作活動はものすごく、「よう子シリーズ」を描き始めていながら、『こだま』には1月号から12月号まで毎月中編を掲載しています。
『こだま』の奥付のページには他の貸本の宣伝が載っています。これによると『泉』10月号(No.77)の大岡まち子(新人)、『泉 別冊』No.20に角田まき子(新人)とありますから、3氏とも同じ頃のデビューだったのでしょうか。
『泉』10月号(No.77)には大岡満知子「イーストサイド」が掲載されています。これがデビュー作でしょうか。
板垣佳子さん、飯塚玲子さんも含めて、昭和39年が若木デビューの年だったように思います。「新界」の結成が30年代中頃だとすると、少し間が空きすぎているように思えます。若木書房との関係が深まるのは30年代後半ではないでしょうか。
新人育成に時間がかかったともとれますが・・・。創刊当時の『若草』を見てみたいですね。
杉本啓子さんは『COM』昭和43年2月号掲載の「ぼくらはまんが予備軍」で「新界」について語っています。
「私は、いまは会員ではないのですけど、私がはいった五年ほど前の”新児童少女まんが界”は、通信教育のような形でした。原稿を送ると、会長の草ノヒカルさんが、直して送りかえしてくれるんです。会員も、実力に応じて三段階に分かれていました。当時は小学生などもいたのですが、いまはだいたい、高校生になったようです。人数が多かったので、考えかたもまちまちの人がおり、その人たちが独立して新しいグループが生まれていくというようでした。」
「 ”新児童少女まんが界”は、売れるまんが家をそだてる目的でやっていた感じです。指導者がまんが界にくわしかったので、描ける人は、出版社へ紹介してくれるわけです。私もそれで若木書房から、単行本をだしました。」
もう少し後の会員には曽祢まさこさんがいます。曽祢まさこさんも『手錠はおどる デビューの頃』で「新界」の想い出や当時「若草」に載ったイラストを掲載しています。
その他の資料としては『まんだらけ』12号(1996年3月3日発行)に、にのみや静「今だからゴメンナサイですむかもしれない」か掲載され、「新界」の想い出が語られています。
『漫画の手帖』に連載された回想記に加筆修正を加えた総集編です。『漫画の手帖』は東京へ行った時に中野ブロードウェイのタコシェで探していましたが、入手できない号も多かったので、総集編の出版はうれしいです。
笹生那実(さそうなみ)さんは、1968年(昭和43年)中学生になった時に、新児童少女漫画界(新界)に参加、同年8月発行の第57号から昭和46年9月発行の第72号までの『若草』を所持しているとのこと。
「激動の時代を駆け抜けた漫画少女の実録エッセイ !!」 ご自身の当時の作品と、『若草』掲載のカットがたくさん載せられています。(ご自身の作品に対するツッコミが面白い!)
「『若草』物語」では第72号が最終巻となっていますが、前回表紙絵を載せたように、第73号が最終号となりました。発行予定通り昭和46年12月に刊行されています。編集後記に草ノ先生の10年余りの努力、とありますから、創刊は昭和30年代中頃でしょうか。
最終号の1号前、第72号です。
『若草』第72号 山田美根子特集号 昭和46年9月20日発行 今号の表紙 はざま邦
第72号は山田美根子特集号。「新界」卒業が決まると特集号が編まれたようです。これで晴れて「プロ入り」となりました。
前回のブログでふれた「残暑お見舞い」です。草のひかる先生以外は「卒業」された漫画家さんでしょうか。
最初に載っているのは杉本啓子さんです。
高階良子先生のデビュー作が掲載された『ゆめ』第2号(No.62)には「新界」の会員募集の記事が掲載されています。
「現在若木で活躍中の会員には 大岡まち子、角田まき子、杉本啓子、板垣佳子、飯塚玲子さんたちがいます。」とありますから、高階先生より前に若木デビューをされています。
杉本啓子さんのデビュー作は昭和39年発行の『こだま』10号(No.67)の「小さな小さな物語」だと思います。(表紙のNo.66は誤りです。)
矢代まさこ先生の作品掲載号ですね。
余談になりますが、昭和39年(1964年)の矢代まさこ先生の創作活動はものすごく、「よう子シリーズ」を描き始めていながら、『こだま』には1月号から12月号まで毎月中編を掲載しています。
『こだま』の奥付のページには他の貸本の宣伝が載っています。これによると『泉』10月号(No.77)の大岡まち子(新人)、『泉 別冊』No.20に角田まき子(新人)とありますから、3氏とも同じ頃のデビューだったのでしょうか。
『泉』10月号(No.77)には大岡満知子「イーストサイド」が掲載されています。これがデビュー作でしょうか。
板垣佳子さん、飯塚玲子さんも含めて、昭和39年が若木デビューの年だったように思います。「新界」の結成が30年代中頃だとすると、少し間が空きすぎているように思えます。若木書房との関係が深まるのは30年代後半ではないでしょうか。
新人育成に時間がかかったともとれますが・・・。創刊当時の『若草』を見てみたいですね。
杉本啓子さんは『COM』昭和43年2月号掲載の「ぼくらはまんが予備軍」で「新界」について語っています。
「私は、いまは会員ではないのですけど、私がはいった五年ほど前の”新児童少女まんが界”は、通信教育のような形でした。原稿を送ると、会長の草ノヒカルさんが、直して送りかえしてくれるんです。会員も、実力に応じて三段階に分かれていました。当時は小学生などもいたのですが、いまはだいたい、高校生になったようです。人数が多かったので、考えかたもまちまちの人がおり、その人たちが独立して新しいグループが生まれていくというようでした。」
「 ”新児童少女まんが界”は、売れるまんが家をそだてる目的でやっていた感じです。指導者がまんが界にくわしかったので、描ける人は、出版社へ紹介してくれるわけです。私もそれで若木書房から、単行本をだしました。」
もう少し後の会員には曽祢まさこさんがいます。曽祢まさこさんも『手錠はおどる デビューの頃』で「新界」の想い出や当時「若草」に載ったイラストを掲載しています。
その他の資料としては『まんだらけ』12号(1996年3月3日発行)に、にのみや静「今だからゴメンナサイですむかもしれない」か掲載され、「新界」の想い出が語られています。