七つ池の由来については、『銚子市史』の「灌漑用水の設営とその労苦」に記されていますが、ほとんど『西銚子町誌』の引用です。
『西銚子町誌』は根本直三の編纂により、大正7年(1918年)1月2日発行されました。昭和58年(1983年)2月に、銚子市本城小学校PTA西銚子町誌刊行委員会により復刻されています。
『西銚子町誌』は、第5章「灌漑」で七つ池の由来と現況を記しています。なお、原文のままの引用ではなく、カタカナをひらがなにしたり、漢字を新字やひらがなにしています。その他の部分の引用も同じです。
「当区(注:長塚区)は、西銚子町に於いて最も、灌漑に便なる地なり。これ、当区の中央高地に、昔は七個の溜池ありて、その位置の宜しきを得たると、溜池の数の多きとに由れり。地方の人は、之を七ッ池という。」
続いて、七ッ池が作られた由来を記していきますが、「この池のことは、記録なきを以て、正確に、その出来たる年代を知り難かりしを以て、土地のあらゆる老人に就きて、言伝を聞きし」と言い伝えによることを示しています。
ここで記された由来については、『銚子市史』をはじめ、様々に引用されています。ここでは原本ではなく、引用部分を紹介します。郷土教育研究会編『わたくしたちの銚子』です。
昭和36年6月28日再販発行(改定新版)、初版発行は昭和33年9月28日
「正徳年間(1711年~1715年)の昔、百姓治兵衛というものが、毎年おこる田畑の旱害を憂えて、村民と相談して池を掘ることにいたしました。」
「さらに享保の末年(1735年頃)、再び大旱害におそわれ、水の不足を生じたので、治右衛門という百姓が私財をなげうって一池を掘り、村人もこれに協力して田畑は助かりました。」
「その後、寛保三年(1743年)にはまたまた旱害がつづき、二ッ池でも水不足になったので、村民は五ッ池を掘り、合わせて七ッ池として田畑を旱害からまもることが出来ました。」
『西銚子町誌』と比較してみると、若干のニュアンスの違いがあります。
また、治右衛門が二つ目の池を掘ったのは、享保の末年(1735年頃)となっていますが、『西銚子町誌』には年代は入っていないと思います。
更に七ッ池が出来た時期について、『西銚子町誌』の記述とは異なっています。
「爾来年月ようやく移り、人家次第に増加し、人々土地の開墾に怠りなかりしかば、荒地も変じて立派なる田畑となりし所多く、二か所の池くらいにては又旱損の害をこうむることを免れざるに至る、されば村民は決議の上、数回に池を増掘し遂に七個の池を有するに至れり。而して、七ッ池の名称を用い始めしは延亨年間よりの事なりといえば、約30年間に、七個の溜池を作りたるが如し。」
『西銚子町誌』以外の参考文献があったのでしょうか。図書館の郷土資料を確認したかったのですが、新型コロナウイルス対策で休館が続いています。後日機会があったら調べてみます。
七ッ池の個々の名称について、『西銚子町誌』の記述です。
「七ッ池とは、字、塚子森の溜池、これは、岩ゼキのすぐ下にありしが、今は田地と変じたり。これと、岩ゼキ、ヒルモゼキ、中ゼキ、上ゼキ、江戸ゼキ、新池の七個を総称したる名にして・・・」
『西銚子町誌』が編纂された大正初期の段階で、すでに6池になっていることがわかります。
『櫻の公園七ッ池』のリーフレットでも、6個の池が描かれています。
次回に続きます。
『西銚子町誌』は根本直三の編纂により、大正7年(1918年)1月2日発行されました。昭和58年(1983年)2月に、銚子市本城小学校PTA西銚子町誌刊行委員会により復刻されています。
『西銚子町誌』は、第5章「灌漑」で七つ池の由来と現況を記しています。なお、原文のままの引用ではなく、カタカナをひらがなにしたり、漢字を新字やひらがなにしています。その他の部分の引用も同じです。
「当区(注:長塚区)は、西銚子町に於いて最も、灌漑に便なる地なり。これ、当区の中央高地に、昔は七個の溜池ありて、その位置の宜しきを得たると、溜池の数の多きとに由れり。地方の人は、之を七ッ池という。」
続いて、七ッ池が作られた由来を記していきますが、「この池のことは、記録なきを以て、正確に、その出来たる年代を知り難かりしを以て、土地のあらゆる老人に就きて、言伝を聞きし」と言い伝えによることを示しています。
ここで記された由来については、『銚子市史』をはじめ、様々に引用されています。ここでは原本ではなく、引用部分を紹介します。郷土教育研究会編『わたくしたちの銚子』です。
昭和36年6月28日再販発行(改定新版)、初版発行は昭和33年9月28日
「正徳年間(1711年~1715年)の昔、百姓治兵衛というものが、毎年おこる田畑の旱害を憂えて、村民と相談して池を掘ることにいたしました。」
「さらに享保の末年(1735年頃)、再び大旱害におそわれ、水の不足を生じたので、治右衛門という百姓が私財をなげうって一池を掘り、村人もこれに協力して田畑は助かりました。」
「その後、寛保三年(1743年)にはまたまた旱害がつづき、二ッ池でも水不足になったので、村民は五ッ池を掘り、合わせて七ッ池として田畑を旱害からまもることが出来ました。」
『西銚子町誌』と比較してみると、若干のニュアンスの違いがあります。
また、治右衛門が二つ目の池を掘ったのは、享保の末年(1735年頃)となっていますが、『西銚子町誌』には年代は入っていないと思います。
更に七ッ池が出来た時期について、『西銚子町誌』の記述とは異なっています。
「爾来年月ようやく移り、人家次第に増加し、人々土地の開墾に怠りなかりしかば、荒地も変じて立派なる田畑となりし所多く、二か所の池くらいにては又旱損の害をこうむることを免れざるに至る、されば村民は決議の上、数回に池を増掘し遂に七個の池を有するに至れり。而して、七ッ池の名称を用い始めしは延亨年間よりの事なりといえば、約30年間に、七個の溜池を作りたるが如し。」
『西銚子町誌』以外の参考文献があったのでしょうか。図書館の郷土資料を確認したかったのですが、新型コロナウイルス対策で休館が続いています。後日機会があったら調べてみます。
七ッ池の個々の名称について、『西銚子町誌』の記述です。
「七ッ池とは、字、塚子森の溜池、これは、岩ゼキのすぐ下にありしが、今は田地と変じたり。これと、岩ゼキ、ヒルモゼキ、中ゼキ、上ゼキ、江戸ゼキ、新池の七個を総称したる名にして・・・」
『西銚子町誌』が編纂された大正初期の段階で、すでに6池になっていることがわかります。
『櫻の公園七ッ池』のリーフレットでも、6個の池が描かれています。
次回に続きます。