久しぶりに池田町の往生院を通り抜けるコースを散歩した。気になっていた奥山静叔のお墓の標柱が真新しいものに建て替えられていた。昨年4月、ここを通りかかった時に根元が腐った標柱が倒れたままになっていることに気付いた。すぐに市の担当課に連絡した。「今年は予算配分が決まっているので立て直すのは来年になります・・・」と気のない返事。それから何度か通ったがそのままほったらかし。2、3カ月ほど前に通りかかった時、倒れた古い標柱を立て直してあった。そして今回やっと新しい標柱に建て替わったというわけだ。それにしてもこの標柱1本建てるのに1年以上かかるものなんだろうか。もし僕が言わなかったら今頃まだ倒れたままだったかもしれない。やっぱり市民一人一人が気づいたら言わないとダメなんだな。
さらに言うなら、往生院の境内には正清院(徳川家康の八女振姫)の供養塔や熊本洋学校を創った横井太平(横井小楠の甥)のお墓などもある。何にも案内がなくていいんだろうか。

【奥山静叔(おくやませいしく)】
文化14年(1817)に相良村(現菊鹿町)の医師の家に生まれ、21歳から10年間大阪の緒方洪庵の適塾に学んで塾長を勤め、弘化3年(1846)帰郷した。内外の評判が高く、後には藩主の内命で熊本に出て医業を開き、蘭学の教授や蘭書の翻訳にも従事している。文久3年(1863)には藩主の侍医となり、熊本医学校ができると助教に任命され、マンスフェルトを助けて西洋医学振興の基礎を築いた。明治7年引退し、同27年3月10日、78歳でなくなった。
さらに言うなら、往生院の境内には正清院(徳川家康の八女振姫)の供養塔や熊本洋学校を創った横井太平(横井小楠の甥)のお墓などもある。何にも案内がなくていいんだろうか。

【奥山静叔(おくやませいしく)】
文化14年(1817)に相良村(現菊鹿町)の医師の家に生まれ、21歳から10年間大阪の緒方洪庵の適塾に学んで塾長を勤め、弘化3年(1846)帰郷した。内外の評判が高く、後には藩主の内命で熊本に出て医業を開き、蘭学の教授や蘭書の翻訳にも従事している。文久3年(1863)には藩主の侍医となり、熊本医学校ができると助教に任命され、マンスフェルトを助けて西洋医学振興の基礎を築いた。明治7年引退し、同27年3月10日、78歳でなくなった。