津々堂さんのメインサイト「肥後細川藩拾遺」にリンクされている「金春流肥後中村家」のサイトを見ていたら、とても興味深い記述が出てきた。金春流(こんぱるりゅう)というのは能楽の流派の一つで、起源は聖徳太子の時代までさかのぼるという。豊臣秀吉の時代に政権公認の流派として全盛を極め、肥後藩主となった加藤清正も慶長11年前後、金春流の能役者・中村勝三郎政長を五百石で召し抱え能楽に力を入れたと言われる。その後、後を継いだ細川家も代々文化人であり能楽も大事にした。金春流に加え喜多流も同家の御流儀として抱え、今日でも熊本は能楽の拠点の一つとなっている。
それはさておき、その中村家のサイトの中に歌舞伎の起源に関わる記述があった。そこには歌舞伎の創始者と言われる出雲阿国(いずものおくに)が活躍した時代、天正(1573-1592)から文禄(1592-1596)にかけて、つまり安土桃山時代ということになるが、その頃既に「ややこ踊り」や「童部(わらわべ)」の芸が存在したというのである。以前、このブログでも取り上げたが、加藤清正公が八幡の国(やわたのくに)なる女芸能者を招いて塩屋町三町目の武者溜りで勧進能や歌舞伎の興行を行なったという記録が残っているが、この八幡の国も「ややこ」と書いてあるので、まさにザ・わらべと同じような年齢だったのではないだろうか。それを読んだ瞬間、鳥肌が立つのを覚えた。
かえちゃん(14・中3)、あやのちゃん(14・中3)、くるみちゃん(15・高1)
ザ・わらべのリーダーくるみちゃん
それはさておき、その中村家のサイトの中に歌舞伎の起源に関わる記述があった。そこには歌舞伎の創始者と言われる出雲阿国(いずものおくに)が活躍した時代、天正(1573-1592)から文禄(1592-1596)にかけて、つまり安土桃山時代ということになるが、その頃既に「ややこ踊り」や「童部(わらわべ)」の芸が存在したというのである。以前、このブログでも取り上げたが、加藤清正公が八幡の国(やわたのくに)なる女芸能者を招いて塩屋町三町目の武者溜りで勧進能や歌舞伎の興行を行なったという記録が残っているが、この八幡の国も「ややこ」と書いてあるので、まさにザ・わらべと同じような年齢だったのではないだろうか。それを読んだ瞬間、鳥肌が立つのを覚えた。
かえちゃん(14・中3)、あやのちゃん(14・中3)、くるみちゃん(15・高1)
ザ・わらべのリーダーくるみちゃん