徒然なか話

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山鹿灯籠おどり の歴史

2016-06-17 20:37:06 | イベント
 昨夜のテレビや今朝の新聞で、世界的ファッションデザイナーの山本寛斎さんが「山鹿灯籠まつり」のアドバイザーに就任したというニュースが報道された。まつりのハイライトである「千人灯籠踊り」の演出をアドバイスするという。ご本人は「エイヤッと大胆に変えるつもりはない。私は助言する立場で、主役は市民。私は東京でアピールする」と述べている。どういう風に変わるのか、あるいは変わらないのか気になるところだが、まつりの1ファンとしては正直、この伝統あるまつりを変にいじくってもらいたくない。
 千年以上の歴史を有する「山鹿灯籠まつり」だが、祭りの呼び物である「灯籠おどり」が今日のような姿になるまでには、先人たちの汗と涙の歴史が込められている。
 最初は昭和8年、温泉町山鹿にかつての賑いを取り戻そうと、旦那衆が、明治時代からお座敷唄として唄われていた「よへほ節」を、大作詞家・野口雨情に依頼し、温泉町の唄として改作したこと。次に、戦後、山鹿出身の民俗学研究家であり放送作家でもあった木村祐章さんが、「山鹿灯籠まつり」を民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させたこと。そして昭和28年、山鹿市は温泉町を復活させる目玉として、灯籠まつりを彩る灯籠踊りの創作を、山鹿の検番で芸者さんたちに踊りを教えていた藤間富士齋さん(当時18歳)に依頼。富士齋さんは、踊り手の頭に灯籠をいただき「よへほ節」に乗せて踊る、今日の「山鹿灯籠おどり」を考案した。
 そんな歴史の重みが、今日の「山鹿灯籠おどり」のえも言われぬ趣きとなっていると思うのである。
※右は今年度のポスター

▼熊日新聞記事より


▼山鹿灯籠おどり・千人おどり



▼かつてお座敷唄だった頃の「よへほ節」