1983年の3月から1986年の5月までの3年3ヶ月暮らした栃木県の黒磯(今の那須塩原)は、わが生涯の中でも最も思い出深い地のひとつである。春夏秋冬それぞれの季節に、美しい日本の風景を見ることが出来た。
僕は週3の頻度で那須高原に登っていた。那須湯本に僕が担当している会社保養所があったからである。那須高原へ登る時は必ず那須街道を通った。黒磯から那珂川を渡って那須街道に入ると道の両側に赤松林が続く。ちょうど今ごろの季節にはその赤松林に沿って鮮やかな色彩の紫陽花が目を楽しませてくれた。おそらく僕がこれまでに見た美しい風景の中のベスト5に入るだろう。


※写真提供:「続・リンゴの叫び!」さん
那須湯本の会社保養所で用を済ませると、時々、那須岳に向かって車を走らせた。那須街道を5分ほど登ったところに那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)がある。ここは、平安時代末期、屋島の戦いにおいて勇名を馳せた弓の名手、那須与一ゆかりの神社である。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、平家の落人たちは、山深い宮崎県の椎葉の地に逃げ延びる。しかし、そこに源頼朝に落人討伐を命じられた、那須与一の弟、那須大八郎宗久がやってくる。那須大八は落人たちのつつましく貧しい暮らしに追討を断念する。そして、ともに椎葉で暮らすようになり、平家の末裔である鶴富姫と恋に落ちる。やがて鎌倉から帰還の命が下された那須大八は、すでに懐妊していた鶴富姫に「男子が生まれたならば我が故郷下野の国へ、女子ならば遣わすに及ばず」と言い残し椎葉を後にする。月満ちて鶴富は女児を出産し、親子共々、椎葉の地で穏やかな日々を送ったと伝えられる。
この悲恋物語を歌った「ひえつき節」は、今も椎葉の地で歌い継がれている。
僕は週3の頻度で那須高原に登っていた。那須湯本に僕が担当している会社保養所があったからである。那須高原へ登る時は必ず那須街道を通った。黒磯から那珂川を渡って那須街道に入ると道の両側に赤松林が続く。ちょうど今ごろの季節にはその赤松林に沿って鮮やかな色彩の紫陽花が目を楽しませてくれた。おそらく僕がこれまでに見た美しい風景の中のベスト5に入るだろう。


※写真提供:「続・リンゴの叫び!」さん
那須湯本の会社保養所で用を済ませると、時々、那須岳に向かって車を走らせた。那須街道を5分ほど登ったところに那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)がある。ここは、平安時代末期、屋島の戦いにおいて勇名を馳せた弓の名手、那須与一ゆかりの神社である。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、平家の落人たちは、山深い宮崎県の椎葉の地に逃げ延びる。しかし、そこに源頼朝に落人討伐を命じられた、那須与一の弟、那須大八郎宗久がやってくる。那須大八は落人たちのつつましく貧しい暮らしに追討を断念する。そして、ともに椎葉で暮らすようになり、平家の末裔である鶴富姫と恋に落ちる。やがて鎌倉から帰還の命が下された那須大八は、すでに懐妊していた鶴富姫に「男子が生まれたならば我が故郷下野の国へ、女子ならば遣わすに及ばず」と言い残し椎葉を後にする。月満ちて鶴富は女児を出産し、親子共々、椎葉の地で穏やかな日々を送ったと伝えられる。
この悲恋物語を歌った「ひえつき節」は、今も椎葉の地で歌い継がれている。