徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

二本木のはなし。

2018-04-10 14:06:08 | 歴史
 二本木地区にお住まいの方がいつもこぼされることは、住所を聞かれて「二本木」と答えると、判で押したように「あゝ遊郭の」という反応が返ってくることだそうである。まるで遊郭しかなかったかのような世間の不認識がとても不本意だというのだ。
 二本木に遊郭が存在したのは明治10年の西南戦争後から昭和33年までのわずか80年間に過ぎない。奈良時代(西暦700年代)には既に二本木に役所が置かれていたことを示す遺跡も発掘されている。平安時代に入ると肥後国府が置かれ、800年の間、肥後の中枢をなす官庁街であり続けた。また、平安時代なかば(934年)には京都の祇園社の分霊を勧請して祇園宮(現北岡神社)が湯の原(現二本木5丁目)に創建された。 江戸時代中期には、熊本藩第6代藩主・細川重賢により医学校再春館(熊本大学医学部の前身)が宮寺(現二本木3丁目)に設立されるなど常に文化文明の都であった。明治5年6月から明治9年2月までの4年弱は古町村(現二本木3丁目)に県庁が置かれ、白川河畔であったことから県名も「白川県」と称していた。このように歴史豊かな町であるにもかかわらず、「二本木遊郭」だけで町のイメージを語られることにがまんがならないということなのだろう。


北岡神社・祇園祭神幸行列(南巡行ルート)の御旅所(古町公園:白川県庁跡)