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茶屋を開いていたのは戦前までだったらしいが、この店の前を通る道「新坂」は戦後の車社会になるまでは、熊本市内と上熊本駅の間を歩いて行き来する行商人や荷馬車を引く馬方などが行き交う道だった。うどんが売りだったらしいが「八景園」は格好の「峠の茶屋」的な存在だったという。
3年ほど前、フォローさせていただいているブログ「水前寺古文書の会」さんの「明治42年頃の熊本の遊びどころ」という記事に、当時の人気店が23店舗ほど紹介されていて、その中に挙げられている「一休」という料理屋が、「八景園」の前身であったことに驚いたことがある。この料理屋「一休」の女将は二本木遊郭内にあった西券番でならした芸娼お繁という人で、才色兼備の女将だったそうである。京町台の東端に位置する眺望の佳さが売り物だったようだが、庭に咲く赤い椿の花も客を和ませていたのかもしれない。「一休」という店名も「峠の茶屋」を感じさせる。
当時は木々や竹林などに囲まれた自然豊かな地区でしたが、今はコンクリートで固められてしまい、昔の面影はありません。
わが家のとなりにもまだ畑が残っていましたので、荷馬車の馬を休ませるスペースがあり、ずっと馬を眺めていたりしたものです。
昔の検番の売れっ子芸妓の中には優秀な人が結構いたらしいですね。
江戸時代以前も峠越えに茶屋は欠かせないようです。
>「八景園」と言ってもわが家の大家Y氏宅なのだが、かつて「八景園」という名の茶屋を開いていたので近所の人たちはみなこの家のことを「八景園」と呼んでいた。
へ~っ、私が育った福岡の家は隣の農家から買った古い大きな家でしたが、家の庭にありとあらゆる木々が植わっていて、私には最高の思い出の地でした。借家もたくさん持っておられましたね(笑)、そんなことを思い出します。
>その門をくぐるとすぐ脇に一本の椿の木があり、晩秋になると赤い花を咲かせた。
素敵ですね。
>熊本市内と上熊本駅の間を歩いて行き来する行商人や荷馬車を引く馬方などが行き交う道だった。
そうそう、我が家の隣の往来も常に荷馬車が行き交っていました。
>西券番でならした芸娼お繁という人で、才色兼備の女将だったそうである。
女将さんも知性に富んだ人だったんですね。当時はどこで教養を身につけたんでしょうね?
確かに現代の高級クラブのママさんも才色兼備だと聞きますね。
>「一休」という店名も「峠の茶屋」を感じさせる。
峠の茶屋って経験ないですが、峠越えしての一服って、今ならサービスエリアにあたるのか(笑)?、風情を感じますね。
有難うございました。