徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「 花燃ゆ 」 をめぐる駄考

2015-03-16 20:15:32 | 歴史
 広末涼子が演じるはずだったNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の京都の芸妓辰路(たつじ)役を、広末の妊娠にともなう出演辞退により鈴木杏が代わりに演じることになったというニュースをネットで見た。鈴木杏の時代劇出演は映画の森田芳光版「椿三十郎」くらいしか記憶にないが、ちょっと面白そうなキャスティングだ。
 芸妓辰路といえば、長州藩の勤王志士・久坂玄瑞の愛妾として知られた勤王芸者の一人。玄瑞との間に男児秀次郎をもうけた。玄瑞は禁門の変の時に自刃。遺された秀次郎が久坂家の家督を継ぐまでには紆余曲折があったようだ。その辰路と秀次郎をずっと支え続けたのが、長州藩の同志で後に明治政府の大臣を務めることになる品川弥二郎。秀次郎は品川のコネで大倉財閥の祖、大倉喜八郎の経営する大倉組に就職することになる。
 ところで大倉財閥といえばホテルオークラや大成建設などの企業群や札幌の大倉山ジャンプ競技場などを思い出すが、二代目の大倉喜七郎はつとにその名を知られた趣味人で、実は新しいスタイルの邦楽、大和楽(やまとがく)の創設者でもある。自ら楽器を開発したり、作詞作曲も手がけたという。下の映像でも聞こえるが西洋音楽風のハモリなどは大和楽の特徴である。
※右の絵は芸妓辰路を描いたもの

   ▼大和楽「花姿」より

     作詞:大江捷也 作曲:大和久子 作調:中村花誠 監修:大和久満 振付:中村花誠

「 くまもとをどり 」のはなし。

2015-03-15 20:28:31 | 音楽芸能
▼「くまもとをどり 2014」の風景

HIROさん撮影

 2月1日に始まった「春のくまもとお城まつり」もいよいよ佳境に入り、今週末からは注目イベントが目白押し。中でも僕が見逃せないのは「くまもとをどり」。女流邦楽演奏家であり、また日本舞踊の指導者でもある中村花誠さんが、平成20年(2008)に立ち上げた邦楽の舞台である。平成23年(2011)からは舞台を二の丸広場に移したが、その年は東日本大震災のため中止となったのは残念だった。また、平成25年(2013)は、雨のため急遽、舞台を本丸御殿に移すなど、野天の舞台は常に天候の心配がつきまとうが、歌舞伎踊りの始まりは野天の舞台だったわけで、しかも天下の名城・熊本城を背景とした舞台はまるで一幅の絵のよう。あとは晴天を乞い願うのみである。中村花誠さんプロデュースによる舞台は毎年異なったテーマで趣向が凝らされるが、今年はいったいどんな舞台が展開されるのか興味深い。

中村花誠さんが語る「くまもとをどり」立ち上げの趣旨
 私は長く京都に住んでいましたが、京都の街づくりは神社と伝統芸能を中心とした花街が絶妙に融合し、京の風情を彩っています。この街づくりのシステムを、熊本でも活用できないかと考えていました。
 しかし、地方では舞台人として人材が育っていません。会場はあってもそれを生かす人がいない。商業ベースとして長く地域に根付かせるのは非常に難しいことです。私は平成12年に「ザ・わらべ」という子どもの演奏、舞踊団を結成し、若い人を育ててきました。その成果を発表できる舞台を作りたいという思いが、「熊本をどり」を始めたきっかけのひとつです。
 それと、伝統芸能の中心地である京都では、舞妓さんや芸妓さんが登場する「都をどり」が有名ですが、そのほかにも伝統芸能を通した様々な公演が行われ、観光資源として国内外から多くの観光客を集めています。熊本でもこのような伝統芸能を根付かせ、観光資源として地域経済の活性化にお役に立ちたいと考えています。「熊本をどり」を通じて、熊本で芸で生きていく人づくりと、伝統芸能で地域経済が潤う仕組みを作り上げること。このふたつが私の思いです。

▼2014年の演目「熊本城清正の春 肥後春想」



≪舞踊団花童の出演予定≫
3月21日
      13:00 舞踊ライブ(城彩苑・湧々座)
      14:15 桜の宴(本丸御殿)
      15:30 舞踊ライブ(城彩苑・湧々座)
      17:00 桜の宴(本丸御殿)
3月27日 14:00 くまもとをどり(二の丸広場)
3月29日 19:00 水前寺まつり (水前寺成趣園能楽殿)

JR上熊本駅 新たなスタート!

2015-03-14 13:30:58 | イベント

蒲島熊本県知事、大西熊本市長、青柳JR九州社長、設計者の水戸岡鋭治氏などによる「くす玉割り」


京陵中学校吹奏楽部によるファンファーレ


エスカレーターで登るとウッドデッキ風のプラットフォームが


待合室


一段高い高架橋を新幹線が走り抜ける


全体的に木を多用して柔らかい雰囲気


プラットフォームから駅前広場を見る


漱石先生も今日は正装でお祝い

九州新幹線 この4年

2015-03-12 21:19:33 | 熊本
 九州新幹線が熊本を走るようになってから今日でちょうど4年。博多-熊本間の利用者は順調に増えつつあるというが、新幹線に期待した人々の願いはそれだけではなかったはず。熊本の経済や文化にどんな効果があったのか、きちんとした分析はまだ見たことがない。
 熊本県民が熱望した九州新幹線。本来ならばもっと盛り上がったのかもしれないが、開業前日に未曽有の東日本大震災が起きるという不幸なスタートを切ることになった。祝賀行事はほとんど自粛され、開業1周年あたりから記念イベントが始まったものの、やはり熱気は相当冷めていたと思う。しかし、ある意味では一時的に浮かれることなく、冷静で着実な空気を醸成する効果はあったのかもしれない(半分皮肉だが…)。いずれにしろ新幹線とリンクさせた振興策はこれからが本番だ。
※写真は新幹線開通とともに姿を消したリレーつばめ

動かぬWindows と LCCと

2015-03-10 19:24:19 | ビジネス
 阿蘇の西原村に住む知人から「パソコンが動かない!」という悲鳴。ヘルプに出かけた。パソコンはWindows Vistaでまだサポートは終了していないが、今日では基本的性能が不足しているやつだ。常駐プログラムを解除したり、画面をクラシックスタイルに戻したり、視覚効果をパフォーマンス優先に変更したり、ディスクのクリーンアップをしたり、考えつくことをいろいろやってみた。結果、動きはだいぶ改善したようだ。
 帰りは朝の小雪まじりの天気がウソのようなドピーカン。中岳の噴煙を振り返ると、東の空から阿蘇の峰々を越えてジェット機が飛んできた。近距離で機体を見るのは久しぶりだ。


東の空から飛行機が飛んできた。


ジェットスター!東京から熊本まで2000円くらいで来れるやつかな!?

三千世界の鴉(からす)を殺し 主と朝寝がしてみたい

2015-03-09 15:26:42 | 音楽芸能
 昨夜の「花燃ゆ」では高良健吾扮する高杉晋作が、三味線をつま弾きながら、「三千世界の鴉を殺し・・・」と口ずさむシーンがあった。
三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい
 この七七七五の短詩は、高杉晋作の作といわれる都々逸の一節である。遊女と一夜を明かした楼客が、明烏の鳴き声で交情の夢を破られ、後朝(きぬぎぬ)の別れをせねばならない切ない心情を唄ったものだ。三千世界というのは仏教用語で「この世すべて」という意味。
 ということなんだが、ここで疑問が一つ。「花燃ゆ」は今、松下村塾の時代を描いている段階。高杉晋作もまだ二十歳かそこらのはずだ。はたしてそんな歳でこんな詩を唄っただろうか。もし本当に高杉晋作の作であるならば、江戸遊学して品川の遊郭相模楼に逗留していた頃以降に作ったと考えるのが自然だ。当時の相模楼を再現した川島雄三監督の傑作映画「幕末太陽伝」で、石原裕次郎の高杉晋作が唄う分には納得がいくというもの。
 「花燃ゆ」でもこの後描かれるであろう「馬関戦争」の頃、萩の武家の妻女によって唄われたという山口県の代表的な民謡「男なら」の歌詞には下記のようにこの「三千世界・・・」が唄い込まれたものもある。これは明らかにずっと後世になってから付け足されたものであろう。



 これまでも何度かこのブログで取り上げた「品川甚句」は高杉晋作らが逗留した品川宿で生まれた俗曲。使われている言葉が長州弁であり、詩の意味の不可解さが「三千世界・・・」と同じ匂いがするのは気のせいだろうか。




ラン 2題

2015-03-08 20:27:47 | ニュース
■青ガエルのラストラン
 今日が、熊本電鉄・上熊本-北熊本間を走る「青ガエル」2両のうちの1両がラストランを迎えるというので、打越駅周辺へ見に行った。さすがに「撮りテツ」たちの情報収集力は大したもので、昼過ぎには多くの「撮りテツ」たちが沿線にスタンバイしていた。僕が声をかけた人は福岡から来たと言っていたが、県外からやってきた人も多かったようだ。3時ごろまでは北熊本駅で車両公開された後、ラストランが始まった。もう1両は来年3月まで走るそうだが、50年来の友が一人また一人と去っていくようでやはり寂しい。




■前田彩里選手のベストラン
 今日行われた「名古屋ウィメンズマラソン」で、前田彩里選手が2時間22分48秒の好タイムで3位に入り、今年8月の世界選手権の代表をほぼ確実にした。
 この前田選手は熊本信愛女学院の出身だが、僕は彼女の高校時代の走る姿をみた記憶がなく、佛教大学に進んでからの2011年、熊本で行われた全日本インカレの5000mで一度だけ見たことがある。その時はたしか7位くらいだったと記憶しているが、高校大学の先輩でもある同じ長距離の吉本ひかり選手の陰であまり目立たない存在だったような憶えがある。実は、マラソンで注目選手としてメディアで取り上げられるようになってからも、つい最近まであの前田選手だと気付かなかった。スポーツ選手のライフサイクルというのはわからないものだ。それはともかく、まだ23歳、今の勢いを続けてくれれば、来年のリオ五輪、5年後の東京五輪も楽しみになって来た。

初めての東京

2015-03-07 20:53:25 | 
 僕が初めて上京したのは昭和36年(1961)、高校1年の夏休みの東京合宿のこと。夕方6時、熊本駅から急行「阿蘇」に乗り、東京に着いたのは翌日夜の8時。26時間の長旅でヘトヘトの状態だった。それでも有楽町あたりの華やかなネオンを見た時は、「これが夢に見た東京か!」と感動したものだ。
 東京第一夜の宿舎は、当時高田老松町(現目白台)にあった「有斐学舎」。熊本県出身の学生のための寮で、旧熊本藩主細川邸の一角を譲り受けて建てられたという寮だった。夜中に連れて行かれたので、東京駅からどこをどう乗り継いで行ったのか全くわからなかったが、電車の中で勤め帰りの人たちの東京弁での会話があまりに興味深くて食い入るように見ていたら、お兄さんに「なんだバカヤロー!」というような目でにらみつけられた。翌朝宿舎で目を覚ますと東京とはいいながら結構な田舎であることがわかった。下の写真はその前年の昭和35年に撮影された「有斐学舎」の全景である。


 合宿は大学の寮を借りることになっていたが、まだ夏休みに入ったばかりで寮が空いておらず、数日間は「有斐学舎」から早大や日大のプールなどに通い、日本選手権への出場に備えた。合宿本番に入ると大学チームとの練習試合を中心としたハードな毎日が続いたが、僕らはまだ1年生の見習いみたいなもので楽しい想い出しか残っていない。なかでも一番の楽しみは練習休日の映画だった。熊本では数週間遅れでしか見られないような新作映画のロードショーを見られるのが何より嬉しかった。同級生と一緒に映画館のハシゴをしたことを懐かしく思い出す。

肥後水練の歴史

2015-03-06 19:45:37 | 歴史
 僕が高校時代を送った済々黌水球部の恩師で、永く部長を務められた平田忠彦先生は、ご自身は大学時代に箱根駅伝を走ったという陸上競技がご専門だった。しかし、少年時代の夏は一日中、白川八幡淵で泳いでいたという水泳の名手でもあり、肥後古式泳法・小堀流の達人でもあった。小堀流の特長は踏水術、つまり立泳ぎにある。その技術は今日の水球やシンクロで使われる「巻足」と全く同じであり、その小堀流踏水術が済々黌水球部が全国に先駆けて強豪チームとなった要因の一つではないかとよくいわれる。

 
 肥後の水練は、肥後細川藩初代の忠利公が、小倉から熊本に移封された翌年の寛永10年(1633)、江戸から甲州浪人河井半兵衛友明を游ぎの師範として迎え、白川八幡淵で藩士の游ぎの指導にあたらせたことに始まる。以来歴代の藩主は、游ぎを武用として奨励し、藩主自らも御花畑(現花畑公園のところにあった藩主屋敷)に深さ一丈余り(約3メートル)の広い池を掘らせて白川から水を引き、游ぎを修練した。お姫様も游ぎをされていた記録が残っている。宝永年間(1704~1710)頃になって村岡伊太夫政文によって游法がまとめられ、白川天神淵で、上士の指導にあたった。その次子小堀長順(常春)小堀流踏水術の初代師範となり、藩校時習館が創設されてからは、その正課となった。藩主重賢公の薦めもあり、「踏水訣」 「水馬千金篇」を1757年に大阪で出版した。これは、水泳専門書としては、日本で最古の刊行物で当時のべストセラーとなった。「踏水訣」は、黒船来航後少し書き換え「水練早合点」として復刻出版された。五代師範小堀水翁の時には、他藩からの游ぎの留学生も含め、門弟一万人を数えたと伝えられる。

 済々黌に初めてプールができたのは昭和7年(1932)9月のこと。学校創立50周年記念事業の一つとして建設されたもので、長さ25m、幅13m、深さ1.3~3m、6コースという規格で、付帯設備として鉄骨飛込み台、木製のスプリングボード、木造の選手席および脱衣場、シャワー、水洗式小便所など当時としては最先端の設備を誇るプールであった。竣工式では小堀流踏水術の猿木師範らによる游ぎ初めが行われた記録が残っている。

コルト .45

2015-03-05 19:09:25 | 歴史
 昨夜のNHK「歴史秘話ヒストリア 桜田門外の変」はちょっと驚いた。水戸の徳川斉昭が黒幕であることをこれほど断定的に示した番組は初めて見たからだ。歴史に関して多くを学ばせていただいている津々堂さんも、昨夜の放送内容については高く評価されているようだ。
 ここまで断定的に言うということは、それだけ物的証拠が揃ったからだろう。その最たるものが「桜の文様が刻まれた銃」である。この短銃は6連発の「コルトM1847」と呼ばれるものだそうだが、この名前を聞いてふと思い出した。それは中学生の頃だったか一生懸命見ていたテレビ西部劇シリーズ「コルト.45」のこと。西部を渡り歩く武器商人が、悪人を片付けて行くというようなストーリーだったが、主人公が売っていた「コルト.45」の正式名称が「コルトM1847」だったと記憶している。ということはほぼ同じ時代の話だったのか、と妙なところでちょっと感動。



国重文と満開の梅の花

2015-03-04 18:34:04 | 熊本
 開催中の「春のくまもとお城まつり」のなかで特別公開されている国指定重要文化財「七間櫓」を見に行く。昨年秋のお城まつりで、となりの「田子櫓」が公開されたが、残りの櫓群も順次公開して行くのだろう。不開門から登って「七間櫓」を見た後、西竹之丸の梅林を愛でる。今が盛りと花の匂いがただよう中、観光客が次々と梅の花越しの天守閣をカメラに収めていた。数寄屋丸あたりまで行くと平日とは思えないほどの観光客で賑わっていた。あと2週間もすれば桜の花もチラホラとほころび始め、「春のくまもとお城まつり」もいろいろなイベントで最高潮に達する。


今日も熊本城は高校の修学旅行やアジアからの観光客で賑わう。


観光客のシャッターが途切れず休む暇もない「おもてなし武将隊」。


西竹之丸の梅林は今が最高の見頃!


みんな梅の花越しの天守閣がねらいのショットのようだ。


西南戦争時の火災もまぬがれた東南部の平櫓群。真ん中が公開されている七間櫓。


七間櫓の突上窓から14メートル下の城東部を見る。



「 いただく 」 ということ。

2015-03-03 19:55:37 | テレビ
 今やテレビはヘンな日本語のオンパレードだ。なかでも僕が気になるのが「いただく」という言葉。たとえばグルメ番組などで料理を出すお店の人が「どうぞいただいてください」などと平気で言う。どうも「いただく」という言葉を「食べる」の丁寧表現とでも勘違いしているようだ。そこで国語辞書で確かめてみる。
【いただく】
1 頭にのせる。かぶる。また、頭上にあるようにする。
2 敬意を表して高くささげる。頭上におしいただく。
3 敬って自分の上の者として迎える。あがめ仕える。
4 「もらう」の謙譲語。
5 「食う」「飲む」の謙譲語。

 もともと「いただく」という言葉は物を頭の上に乗せたり、かかげたりする動作を表現していたわけで、立場が上位の者から下位の者が何かをもらう時に、それを頭の上におしいただいてもらっていたことから、もらうこと自体を「いただく」と表現するようになったのだろう。従って、そのもらう物が米や酒などであれば、それを食べたり飲んだりする場合も「いただく」と表現するようになったと思われる。つまり、「いただく」というのは、もらう側の立場が下であるという前提があったものと考えられる。
 今日では、立場の上下関係にかかわらず、「もらう」ことを「いただく」と言うが、あくまでももらう側からの謙譲語であって、へりくだった表現をすることによって、相手に敬意を表しているわけだ。
 前述のように、お店の側が「どうぞいただいてください」などというのは、まるで敬意を強いているかのような珍妙な表現と言うことができる。

 さて、「いただき」とは頭の上に物を乗せて運ぶことをいう。頭上運搬は世界各地で見られるが、日本においても地方によっては、この運搬方法が行なわれた時代があった。京都の「大原女(おはらめ)」や、徳島の「阿波のいただきさん」などがよく知られているが、特に女性の運搬手段として行われていたようだ。今日では、熊本ではおなじみの山鹿灯籠祭りにおける灯籠娘もこの「いただき」にほかならない。「いただき」は祭祀のとき巫女が頭上に神具をのせて運んだのが始まりとする説もあるらしい。
 とりわけ、「阿波のいただきさん」と呼ばれた海産物行商は、徳島県の阿部や伊座利の人々によって江戸時代末期から昭和初期まで続いた。日本全国および中国・朝鮮にまで販路を求めたその逞しい行動力から、「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男は「わが国民俗学上、特筆大書すべきものである。」と述べている。

▼京都・大原女と山鹿灯籠娘
 

▼阿波のいただきさん

お囃子(はやし)のはなし。

2015-03-02 18:59:39 | 音楽芸能
 明日はひな祭り。
 ひな祭りといえばおなじみの童謡「うれしいひなまつり」にも登場する「五人ばやし

あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り


 この五人囃子というのは、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、太鼓(うたい)を加えた五役のこと。謡を除く4つの楽器を四拍子ともいう。歌舞伎などでは三味線を除く他の楽器も含めて「鳴物(なりもの)」などと呼ぶ。
 もともと「はやし」の語源は「はやす(栄やす/映やす)」からきていて、「映えるようにする」とか「引き立てる」といった意味合いの言葉。これが、「手拍子を打ったり、声を出したりして歌舞の調子をとる」意味の「囃子(はやし)」に転化して行ったようだ。
 日本最古の「はやし言葉」と言われるのが、「伊勢音頭」でおなじみの

彌長久(いやとこしえ) 吉哉な(よいやな) 安樂樂(あらら)
是者伊勢(これはいせ) 善所伊勢(よいとこいせ)

 江戸時代後期の天保元年(1830)、空前の「お伊勢参りブーム」が到来し、日本の総人口3200万人のうち400万人以上が伊勢を目指したという。そのおかげで「伊勢音頭」は日本全国に伝播し、祝い歌・祭り歌・踊り歌・座興歌・宴席歌・労作歌などとして様々なバリエーションが加えられた。特に「伊勢音頭」という名称は付かなくても「伊勢音頭」に起源を持つ民謡は数えきれないという。しかし、どの唄にも共通しているのは「ヤートコセーノ ヨイヤナ・・・」という「はやし言葉」。実はこれ、二千年以上も昔、神代の時代から伊勢に伝わる御霊歌の詩なのだそうだ。つまり江戸時代に生まれた「伊勢音頭」よりもずっと昔からあったというわけ。「はやし」にもそんな悠久の歴史があるのである。



五人囃子


伊勢音頭/木遣