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肥後水練の歴史

2015-03-06 19:45:37 | 歴史
 僕が高校時代を送った済々黌水球部の恩師で、永く部長を務められた平田忠彦先生は、ご自身は大学時代に箱根駅伝を走ったという陸上競技がご専門だった。しかし、少年時代の夏は一日中、白川八幡淵で泳いでいたという水泳の名手でもあり、肥後古式泳法・小堀流の達人でもあった。小堀流の特長は踏水術、つまり立泳ぎにある。その技術は今日の水球やシンクロで使われる「巻足」と全く同じであり、その小堀流踏水術が済々黌水球部が全国に先駆けて強豪チームとなった要因の一つではないかとよくいわれる。

 
 肥後の水練は、肥後細川藩初代の忠利公が、小倉から熊本に移封された翌年の寛永10年(1633)、江戸から甲州浪人河井半兵衛友明を游ぎの師範として迎え、白川八幡淵で藩士の游ぎの指導にあたらせたことに始まる。以来歴代の藩主は、游ぎを武用として奨励し、藩主自らも御花畑(現花畑公園のところにあった藩主屋敷)に深さ一丈余り(約3メートル)の広い池を掘らせて白川から水を引き、游ぎを修練した。お姫様も游ぎをされていた記録が残っている。宝永年間(1704~1710)頃になって村岡伊太夫政文によって游法がまとめられ、白川天神淵で、上士の指導にあたった。その次子小堀長順(常春)小堀流踏水術の初代師範となり、藩校時習館が創設されてからは、その正課となった。藩主重賢公の薦めもあり、「踏水訣」 「水馬千金篇」を1757年に大阪で出版した。これは、水泳専門書としては、日本で最古の刊行物で当時のべストセラーとなった。「踏水訣」は、黒船来航後少し書き換え「水練早合点」として復刻出版された。五代師範小堀水翁の時には、他藩からの游ぎの留学生も含め、門弟一万人を数えたと伝えられる。

 済々黌に初めてプールができたのは昭和7年(1932)9月のこと。学校創立50周年記念事業の一つとして建設されたもので、長さ25m、幅13m、深さ1.3~3m、6コースという規格で、付帯設備として鉄骨飛込み台、木製のスプリングボード、木造の選手席および脱衣場、シャワー、水洗式小便所など当時としては最先端の設備を誇るプールであった。竣工式では小堀流踏水術の猿木師範らによる游ぎ初めが行われた記録が残っている。