昨日も星川から横浜まで歩く。
ここのところ天気がいい日は、歩いていると汗ばむ。
途中聴いた曲は、大澤壽人の交響曲第三番である。
1907年生まれの大澤壽人はあまり知られていない。
ボストンやパリで6年間学んだあと、
彼は1936年に日本に戻り、数々の作品を発表した。
しかし、その作品は当時の人々にとってとても難解すぎた。
そこで、彼は当時の日本人に理解しやすい音楽をめざし、
日本的な部分を入れつつ、交響曲第三番を作曲した。
第一楽章は激しくダイナミックな箇所が印象的だ。
フランスやアメリカの作曲家からの影響は強いのだろうが、
なんとなくヴォーン・ウィリアムスぽいところもある。
第二楽章は、冒頭とそのあと管楽器で奏される旋律が日本っぽい。
当時のフランスと日本の音楽が、融合というよりは
混在しているような感じではあるが、おもしろい。
第三楽章は、作曲家自身が「幻想メヌエット」と名付けているが、
この場合にその表現は、ぴったりあてはまるだろう。
やはり日本的と西洋的な音楽が交互に登場する感じである。
第四楽章は、彼の作曲の技量の高さを感じることができる。
ドラマティックな展開の中、行進曲的な旋律が時々現れ、
あるひとつの目標に向かって曲は突き進んでいく。
日本的な旋律と西洋的な旋律がからみあいながら、
最後は短調から長調のコードに変わり勝利を得た感じで終わる。
彼が優れた作曲家であることは、疑う余地もない。
しかし、その時代では斬新な彼の音楽は理解できなかっただろう。
1937年に完成した交響曲は、当時の人にとってモダンすぎた。
正しい評価をされなかった彼は、歴史の中で埋もれていく。
彼は西洋音楽の作曲法を十分に理解した優れた作曲家だった。
その彼がこの作品で見せるのは、
西洋と日本が歩み寄り、交わろうとしても
なかなか埋めることのできない溝があることであり、
その苦悩が伝わってくるようでもある。
ここのところ天気がいい日は、歩いていると汗ばむ。
途中聴いた曲は、大澤壽人の交響曲第三番である。
1907年生まれの大澤壽人はあまり知られていない。
ボストンやパリで6年間学んだあと、
彼は1936年に日本に戻り、数々の作品を発表した。
しかし、その作品は当時の人々にとってとても難解すぎた。
そこで、彼は当時の日本人に理解しやすい音楽をめざし、
日本的な部分を入れつつ、交響曲第三番を作曲した。
第一楽章は激しくダイナミックな箇所が印象的だ。
フランスやアメリカの作曲家からの影響は強いのだろうが、
なんとなくヴォーン・ウィリアムスぽいところもある。
第二楽章は、冒頭とそのあと管楽器で奏される旋律が日本っぽい。
当時のフランスと日本の音楽が、融合というよりは
混在しているような感じではあるが、おもしろい。
第三楽章は、作曲家自身が「幻想メヌエット」と名付けているが、
この場合にその表現は、ぴったりあてはまるだろう。
やはり日本的と西洋的な音楽が交互に登場する感じである。
第四楽章は、彼の作曲の技量の高さを感じることができる。
ドラマティックな展開の中、行進曲的な旋律が時々現れ、
あるひとつの目標に向かって曲は突き進んでいく。
日本的な旋律と西洋的な旋律がからみあいながら、
最後は短調から長調のコードに変わり勝利を得た感じで終わる。
彼が優れた作曲家であることは、疑う余地もない。
しかし、その時代では斬新な彼の音楽は理解できなかっただろう。
1937年に完成した交響曲は、当時の人にとってモダンすぎた。
正しい評価をされなかった彼は、歴史の中で埋もれていく。
彼は西洋音楽の作曲法を十分に理解した優れた作曲家だった。
その彼がこの作品で見せるのは、
西洋と日本が歩み寄り、交わろうとしても
なかなか埋めることのできない溝があることであり、
その苦悩が伝わってくるようでもある。