昨日は町田に行く用事があったので、
短い距離ではあるが、町田から長津田まで歩いた。
途中、多少道に迷ったのでほぼ1時間かかった。
いつか246号線沿いに渋谷まで歩くのもいいかもしれない。
この辺りは昔のままの自然や景色が残っていていい。
趣きのある家屋や蔵なども残されている。
この日はそのあと長津田で田園都市線に乗り、
東京の船堀まで地下鉄を乗り継いで行った。
ウォーキングの途中聴いた曲はチャイコフスキーの曲、
有名なスラヴ行進曲と序曲「1812年」である。
ここでは曲の紹介というよりも、
演奏されるべき旋律を演奏しない異版が存在し、
これに政治がからむことに触れたい。
まず聴いたのは小澤征爾の指揮するCD。
これはもちろんスタンダードな演奏で悪くはない。
そのあと聴いたのが、独オイロディスクのCDで、
スラヴ行進曲はフェドセーエフが指揮し、
演奏は全ソビエト連邦放送交響楽団である。
(ドイツ語で書かれた楽団を訳すとこのようになる。)
そして、序曲「1812年」はソビエト国立交響楽団の演奏で、
指揮はコンスタン・イワノフである。
この二人の指揮者の演奏に共通して言えるのは、
旧ロシア国歌が流れず、別の旋律が代用されていることだ。
この話は有名な話で、旧ソ連時代には、
旧ロシア国歌の代わりに、別の旋律が使われていた。
グリンカの旋律が使われた版が存在するようだが、
この演奏はそれに該当するのだろうか。
録音データはないのだが、おそらく1978年頃のものだろう。
それにしても、この仕掛けはあまりも政治的である。
なんとなく気が抜けた感じのスラヴ行進曲、
ロシアの聴衆はそれをどのように感じてきたのだろう。
当たり前のように聴いてきたのか、
何でこんな風な旋律に差し替えるのか、
当時聴いていたロシアの人々はどう感じたのだろう。
イデオロギーを民衆に押し付ける国家は、
そのイデオロギーに逆に縛られるようになる。
民衆はイデオロギーを一時期の間は信じやすいが、
そのイデオロギーに飽きやすいものでもある。
それにしてもこの版はいただけないものである。
お国の事情はどうだったかわからないが、
その旋律が意味するのが歴史的にどうだったのかを
考えるべきなのであって、これを変えるということは、
自国の歴史を改竄するものになってしまう。
でも、このようなことは歴史の世界では実際多いんだなあ。
学問と政治の間を行き来しながら、政治の力によって
その一部が変えられていくことはよくある。
イデオロギーというものにとりつかれた国家はこわいもんだ。
短い距離ではあるが、町田から長津田まで歩いた。
途中、多少道に迷ったのでほぼ1時間かかった。
いつか246号線沿いに渋谷まで歩くのもいいかもしれない。
この辺りは昔のままの自然や景色が残っていていい。
趣きのある家屋や蔵なども残されている。
この日はそのあと長津田で田園都市線に乗り、
東京の船堀まで地下鉄を乗り継いで行った。
ウォーキングの途中聴いた曲はチャイコフスキーの曲、
有名なスラヴ行進曲と序曲「1812年」である。
ここでは曲の紹介というよりも、
演奏されるべき旋律を演奏しない異版が存在し、
これに政治がからむことに触れたい。
まず聴いたのは小澤征爾の指揮するCD。
これはもちろんスタンダードな演奏で悪くはない。
そのあと聴いたのが、独オイロディスクのCDで、
スラヴ行進曲はフェドセーエフが指揮し、
演奏は全ソビエト連邦放送交響楽団である。
(ドイツ語で書かれた楽団を訳すとこのようになる。)
そして、序曲「1812年」はソビエト国立交響楽団の演奏で、
指揮はコンスタン・イワノフである。
この二人の指揮者の演奏に共通して言えるのは、
旧ロシア国歌が流れず、別の旋律が代用されていることだ。
この話は有名な話で、旧ソ連時代には、
旧ロシア国歌の代わりに、別の旋律が使われていた。
グリンカの旋律が使われた版が存在するようだが、
この演奏はそれに該当するのだろうか。
録音データはないのだが、おそらく1978年頃のものだろう。
それにしても、この仕掛けはあまりも政治的である。
なんとなく気が抜けた感じのスラヴ行進曲、
ロシアの聴衆はそれをどのように感じてきたのだろう。
当たり前のように聴いてきたのか、
何でこんな風な旋律に差し替えるのか、
当時聴いていたロシアの人々はどう感じたのだろう。
イデオロギーを民衆に押し付ける国家は、
そのイデオロギーに逆に縛られるようになる。
民衆はイデオロギーを一時期の間は信じやすいが、
そのイデオロギーに飽きやすいものでもある。
それにしてもこの版はいただけないものである。
お国の事情はどうだったかわからないが、
その旋律が意味するのが歴史的にどうだったのかを
考えるべきなのであって、これを変えるということは、
自国の歴史を改竄するものになってしまう。
でも、このようなことは歴史の世界では実際多いんだなあ。
学問と政治の間を行き来しながら、政治の力によって
その一部が変えられていくことはよくある。
イデオロギーというものにとりつかれた国家はこわいもんだ。