今日は横浜から星川まで歩いた。
祭りあとの浅間町は二日前の風景が嘘のように静まりかえり、
多くの人でごったがえして10m進むにも大変だったあの道は、
難なくスイスイと歩むことができてしまう。
祭りで使うため路上に置かれていた神輿・山車も片づけられ、
何とも不思議なものである。
日本の祭りというと神輿・山車がつきものであるが、
もちろん、ヨーロッパだって同じようなものはある。
中世から近代にかけての都市の祭りでは、
ドラゴンや巨人像が、町の中を練り回るのである。
近代になってその祭りの様子は変わって行く。
その話をここですると長くなるのでやめる。
こういった祭りとは違って旅芸人一座が公演前に
街頭で行うパフォーマンスがパラードである。
今日聴いた曲はサティのバレエ音楽「パラード」である。
この曲は何度聴いても不思議である。
旋律らしいものよりも繰り返される音型と、
予測のできない展開というよりも展開のない音楽。
サイレン、タイプライター、ピストルなどのつくり出す雑音と、
楽器との共存し得ないもの同士のコラボレーション。
そして、予告のない音楽の終わり方。
これを当時聴いたパリの民衆はびっくりしただろう。
サティの音楽と私の出会いは別の時に話すとして、
サティの存在は異質なようにみえてとても重要である。
彼の存在によってフランスの音楽が、
19世紀に作り上げられたドイツ音楽という近代的なものから
完全に脱することができたような気もする。
サティもすごいよなと思ったところで天王町が見えてきた。
祭りあとの浅間町は二日前の風景が嘘のように静まりかえり、
多くの人でごったがえして10m進むにも大変だったあの道は、
難なくスイスイと歩むことができてしまう。
祭りで使うため路上に置かれていた神輿・山車も片づけられ、
何とも不思議なものである。
日本の祭りというと神輿・山車がつきものであるが、
もちろん、ヨーロッパだって同じようなものはある。
中世から近代にかけての都市の祭りでは、
ドラゴンや巨人像が、町の中を練り回るのである。
近代になってその祭りの様子は変わって行く。
その話をここですると長くなるのでやめる。
こういった祭りとは違って旅芸人一座が公演前に
街頭で行うパフォーマンスがパラードである。
今日聴いた曲はサティのバレエ音楽「パラード」である。
この曲は何度聴いても不思議である。
旋律らしいものよりも繰り返される音型と、
予測のできない展開というよりも展開のない音楽。
サイレン、タイプライター、ピストルなどのつくり出す雑音と、
楽器との共存し得ないもの同士のコラボレーション。
そして、予告のない音楽の終わり方。
これを当時聴いたパリの民衆はびっくりしただろう。
サティの音楽と私の出会いは別の時に話すとして、
サティの存在は異質なようにみえてとても重要である。
彼の存在によってフランスの音楽が、
19世紀に作り上げられたドイツ音楽という近代的なものから
完全に脱することができたような気もする。
サティもすごいよなと思ったところで天王町が見えてきた。