ニューヨークの朝を迎える。二日酔いも時差ぼけもない。爽快である。二日酔いはともかく時差ぼけは朝ではなく昼に眠くなるものであることは、あとで知る。
安宿をさらなる安宿に替えてから、世界貿易センタービルの跡地へ向かう。通りは通勤のサラリーマンたちでごったがえしていた。跡地内では巨大なクレーン車が大音響を立てている。やがてここに新しいメモリアルビルが建つのであろう。感傷に浸っている人などどこを見回してもいない。道行く人は跡地に目を向けようとしない。たとえ目を向けたとしても一瞬に過ぎない。街は古傷を好まない。街はクレーン車で傷口を塞ぐ。人は沈黙で塞ぐ。
さらに足を伸ばして、波止場に自由の女神を観に行く。NYに行くならぜひ見てこいと知人に勧められたからである。言われるまで、私は自由の女神がNYにあることすら失念していた。
自由の女神を見つけた、と思ったら人であった(写真)。その先で、ちゃんと本物の遠景に出会えた。なるほど立派である。評判通り手を上げている。女神を見つめるつもりでベンチに腰掛けたが、行き交う人ばかり眺めていた。一度中年夫婦にカメラのシャッターを押すのを頼まれた。こちらでは「チーズ」と言うのだろうと思い、「チーズ」と言ったら本当に二人声を合わせて「チーズ」と言い返してきた。おかげでシャッターチャンスを逃してしまった。
自由の女神にさよならを言ったあと、タイムズスクエアに戻ってミュージカルのチケットを買う。『オペラ座の怪人』なら映画も観たし、筋もわかろうとそれに決めた。
その頃ようやく時差なる睡魔に襲われる。一旦宿に戻って仮眠する。
夕方再びミュージカルを観に出かける。劇場前のパブに入って腹ごしらえをする。カウンターの隣には弁護士が腰かけてビールを飲んでいた。白人の弁護士は物腰も柔らかく紳士然として見える。もっとも、日本人の弁護士はあまり会ったことがないからわからない。たぶんどこの国であれ弁護士というものは紳士然として見えるのだろう。テレビで流れていたバスケットボールについて彼と会話を交わした。
パブを出てミュージカルの行列に並ぶ。街角を曲がってなお続くほどの長い行列である。何でチケットを持っているのに並ばなきゃいけないんだと後ろの人に訊いたら、当日券頼みの行列は別にあると言われた。
舞台はさすがによくできていた。ただ、映画と同じ構成なので映画のほうが迫力がある気がした。アメリカ人の演技には、「ため」がない。すべてが流暢なので、何が起こるかわからない緊迫した静止時間がない。もっともこれは私の即席の演劇論で、実のところ私は演劇についてほとんど何も知らない。
なぜだろう、と劇場を出て思った。
夜の路上は小雨の跡で光っている。
なぜだろう。感動がない。面白いが、感動がない。まるですべてが日常の連続である。
街のせいとは思えない。おそらく私の中の何か。
これが時差ぼけというものか。
それとも────
私はぎくりとして立ち止まった。
ここには、あの人がいないせいか。
あるいは、心の中にあの人がい続けているせいか。
旅はときに何かに踏ん切りをつけるために利用される。それがうまく機能しない旅もある。機能しないほうがよいと、心のどこかで思える旅もある。
リンゴを一つ買ってかじった。酸っぱくて思いのほか旨かった。
(つづく)
安宿をさらなる安宿に替えてから、世界貿易センタービルの跡地へ向かう。通りは通勤のサラリーマンたちでごったがえしていた。跡地内では巨大なクレーン車が大音響を立てている。やがてここに新しいメモリアルビルが建つのであろう。感傷に浸っている人などどこを見回してもいない。道行く人は跡地に目を向けようとしない。たとえ目を向けたとしても一瞬に過ぎない。街は古傷を好まない。街はクレーン車で傷口を塞ぐ。人は沈黙で塞ぐ。
さらに足を伸ばして、波止場に自由の女神を観に行く。NYに行くならぜひ見てこいと知人に勧められたからである。言われるまで、私は自由の女神がNYにあることすら失念していた。
自由の女神を見つけた、と思ったら人であった(写真)。その先で、ちゃんと本物の遠景に出会えた。なるほど立派である。評判通り手を上げている。女神を見つめるつもりでベンチに腰掛けたが、行き交う人ばかり眺めていた。一度中年夫婦にカメラのシャッターを押すのを頼まれた。こちらでは「チーズ」と言うのだろうと思い、「チーズ」と言ったら本当に二人声を合わせて「チーズ」と言い返してきた。おかげでシャッターチャンスを逃してしまった。
自由の女神にさよならを言ったあと、タイムズスクエアに戻ってミュージカルのチケットを買う。『オペラ座の怪人』なら映画も観たし、筋もわかろうとそれに決めた。
その頃ようやく時差なる睡魔に襲われる。一旦宿に戻って仮眠する。
夕方再びミュージカルを観に出かける。劇場前のパブに入って腹ごしらえをする。カウンターの隣には弁護士が腰かけてビールを飲んでいた。白人の弁護士は物腰も柔らかく紳士然として見える。もっとも、日本人の弁護士はあまり会ったことがないからわからない。たぶんどこの国であれ弁護士というものは紳士然として見えるのだろう。テレビで流れていたバスケットボールについて彼と会話を交わした。
パブを出てミュージカルの行列に並ぶ。街角を曲がってなお続くほどの長い行列である。何でチケットを持っているのに並ばなきゃいけないんだと後ろの人に訊いたら、当日券頼みの行列は別にあると言われた。
舞台はさすがによくできていた。ただ、映画と同じ構成なので映画のほうが迫力がある気がした。アメリカ人の演技には、「ため」がない。すべてが流暢なので、何が起こるかわからない緊迫した静止時間がない。もっともこれは私の即席の演劇論で、実のところ私は演劇についてほとんど何も知らない。
なぜだろう、と劇場を出て思った。
夜の路上は小雨の跡で光っている。
なぜだろう。感動がない。面白いが、感動がない。まるですべてが日常の連続である。
街のせいとは思えない。おそらく私の中の何か。
これが時差ぼけというものか。
それとも────
私はぎくりとして立ち止まった。
ここには、あの人がいないせいか。
あるいは、心の中にあの人がい続けているせいか。
旅はときに何かに踏ん切りをつけるために利用される。それがうまく機能しない旅もある。機能しないほうがよいと、心のどこかで思える旅もある。
リンゴを一つ買ってかじった。酸っぱくて思いのほか旨かった。
(つづく)