た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

上京・秋

2012年11月06日 | essay
 仕事休みを利用して、東京に行く。

 今回は知人に会うための旅行である。しばしば信州の田舎まで会いに来てくれていたので、たまにはこちらが腰を上げる礼も取ろうと思った次第である。
 
 電車が東京に近づくにつれ、車窓を流れる景色からは緑が消え、灰色の壁や色とりどりの看板が押し合いへし合いし始める。ああ、都会に近づいているなと実感する。
 かつて、この光景にわくわくと胸ときめく頃があった。また、吐き気を催すほどの憂鬱さを覚えた時期もあった。しかし四十に手が届く年齢になって、都会の風景は特別何の感慨も催さなくなっていることに気付いた。ただ、都会である。そこには期待も偏見もない。いろんな店があるだろうし、それらを見て回ればなかなか楽しい暇つぶしにはなるであろう。空気や水はどうしてもある程度我慢しなければいけないが、耐えられないほどではあるまい。あっと驚くような出来事は、おそらく待っていないであろう。東京には東京の日常があり、それは結局、どう色付けされていようと、日常なのだ。

 上野公園で知人たち数名と落ち合い、屋台に入る。冬が近いせいか、観光客もまばらである。

 一杯機嫌で谷中を散策し、怪しげなギャラリーを見て回ったり、タイ焼きを食ったりして、疲れた所で銭湯に入り長湯する。

 日が傾く頃、再び杯を鳴らす。

 久しぶりに友と語り合うのは心地よいものである。初めは多少ぎこちなくても、すぐに昔の呼吸を思い出し、取り留めもなく過去と現在と未来を言葉に乗せて回し飲みし始める。終電を逃したので、最後はファミリーレストランで始発まで付き合ってもらった。もともとそういうつもりだったような座の雰囲気であった。

 時が流れればそれだけ、街は背景に退き、人がより前面に出る。金で買える物は矮小化し、語られた言葉が重みを増す。
 そういうものかも知れない。そこの所がはっきりわかるほどには、まだ歳を取っていない。
コメント
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