た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

不携罪

2012年11月22日 | essay
 夜の喫茶店に行くと、ジャズの流れる薄暗がりの店内で、どの席の客も手元の光る通信機を眺めていた。トレンチコートを羽織ったままの粋な男も、若いカップルでさえもそうであった。あれはみんな何を受信していたのだろう。おそらく地球外生命体から地球の侵略計画についての指示を受け取っていたのだろう。だからあいつらはみんなスパイである。そう考えると最近は街中がスパイだらけになった。あの謎めいた通信機を、世の人は「愛ぱっと」と呼んでいる。あまり愛くるしいものでもない。一昔前は、「連携」と「連帯」を略したのだろうが、「携帯」などと呼んでいた。スパイが連携するなら決して歓迎できない。大変な時代になった。

 ホットコーヒーを注文し、しばらくジャズに耳を傾ける。身も心も音楽に委ねたくても、周りに目を遣ると、誰の顔も通信機の照明で怪しく光っているので、怖くて集中できない。彼らは何しにここに集まったのだろうか。通信機で顔を照らすなら家で一人でもできそうなものだ。若いカップルに至っては、会話しないなら一緒に入る意味がないではないかとまで思ってしまう。いや、もちろん、彼らは私に会話の内容を聞かれたくないのだ。だって彼らはスパイなのだから。

 コーヒーを胃袋に入れたが、私の心は何だか空っぽであった。何も面白くない。せっかく夜の喫茶店にジャズを聴きに入ったのだが、何も面白くないことに気付いた。ジャズ喫茶独特の、濃密な、少し緊張感の漂う、ひょっとしたら誰か見知らぬ人と会話したり、場合によっては肩を叩き合うかも知れない、という一種混沌とした雰囲気を、あの通信機の放つ光線が見事に消し去っていた。世界はそれぞれ孤立していた。

 見事だ、と心に思った。地球外生命体の命令は見事に遂行されている。このままだと、地球人たちはお互いに会って直接会話することを止め、心はばらばらになり、孤独に追いやられ、遠からず絶滅してしまうだろう。

 そんなわけないではないか。私は自分の思考に馬鹿馬鹿しくなって立ち上がった。勘定を払って店を出る。夜風が頬に冷たい。

 やれやれ、こんなろくでもない妄想をするようになったところを見ると、私こそ精神異常の兆候があるらしい。現にほら、普段からそうだ。「連携連帯」も「愛ぱっと」も持たない私だが、そんな私を見遣る周りの奴らの目こそ、最近は、まるで異星人にでも遭ったような目つきではないか。
コメント
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