た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

葬式

2012年11月12日 | essay
 遠い親戚の葬儀に参列する。

 早朝から車を飛ばして駆けつけたので、少々眠い。

 曹洞宗の祭式で、実家が浄土真宗の私には目新しいものであった。中央のやたら豪華な椅子にお坊さんの親方と言える人が座り、左右に二人づつ、子分と言える人たちが座る。お経を唱えたり鳴り物を鳴らしたりするのはもっぱら子分の仕事である。子分たちは絶えず何かの分担があって忙しい。一方親方は、じっと座っていて、時々巨大な習字の筆のようなものを肩に掛けたり左右に振ったりするだけだから、すこぶる楽な仕事である。あれで礼金は親方の総取りに近いのだろうから、曹洞宗のお坊さんになったら親方になるに限る。

 それはさておき、お経はなかなかわかりやすい言葉が多くてよかった。参列者全員に貸し本が配られ、みんなで唱和するのである。その中でも一文が強く私の目を引いた。覚えたくて、何度もごにょごにょと呟いてみたが、覚えられない。式後、一度回収された貸し本を借り直し、再度暗誦を試みた。が、それも食事会のビールで跡形もなく忘れてしまった。これではいかんと思い、式場の係員の人にもう一度貸し本を見せてくれるよう頼んだら、わざわざそのページをコピーして渡してくれた。丁寧な式場である。あるいは、しつこい客なのでコーピーで退散させようと思ったのであろう。
 その文句は以下の通りである。

     最勝の善身を徒(いたず)らにして露命を無常の風に任(まか)すること勿(なか)れ

 意味は想像するしかない。「最勝の善身」とはよほど素敵な身体のことであろう。「無常の風」とはどうせ変わりゆくはずの、その時々にその人を支配する風潮や考え方。流行(はやり)とか、金銭欲とか。性欲や憎しみなど瞬時的な感情も、あるいはその中に含まれるか。「最勝の善身」のごとき恵まれた五体を持ちながら、いい加減に時を過ごし、露のようにはかない命を「無常の風」に委ねていいのだろうか。いやよくないぞ。そんなことじゃ駄目だぞ。

 原義はひょっとしてまったく違っているのかも知れない。そこは読み人の解釈の自由である。「露命」という言葉も気に入った。露命なのだ、我々の命なんて、しょせん。火葬場でわずかな骨と化した故人を眺めた日なので、余計にその感を強くした。

 それは老女の死を弔う式であった。式の最後に孫たちがお別れの言葉を述べた。声を詰まらせながら亡き祖母への感情を吐露する彼らの後ろ姿を見ていると、こちらも胸に迫るものがあった。

 帰りの車は、冷たい雨の中だった。露命を無常の風に任すること勿れ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする