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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~6~

2015年06月12日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


 日は徐々に高みから砂漠を熱する。
 鉄板の上で平べったいパンがいい香りを上げ始めた。カップに注がれた紅茶のすえた様な香りがそれに混ざる。朝食の始まりである。
 『はい、ヒロコ』
 ハサンがちぎったパンをヒロコに手渡す。ヒロコは小さく頷いてそれを受け取る。ハサンはもっと話しかけたそうだが、ヒロコが俯いて応じない。
 みな、車座になって、味気のないパンを黙々と食べる。
 天幕が風でバタバタと鳴る。
 『今日はお姉ちゃんがルブ(ラクダの名前)の乳しぼりね』とジャミラ。
 アイシャは不機嫌である。『ヒロコも乳しぼりをやるべきよ』
 『無理よ。ヒロコにラクダの乳しぼりはまだ無理よ。やり方がわからないわ』
 『やり方は教えればいいでしょ。私たちは忙しいじゃない。機織りもあるし、薪を拾ってこなくちゃいけない。羊の放牧もあるし。ルブの乳しぼりはヒロコに任せるべきよ』
 『無理よ』
 『できるわ』
 ハサンがもぞもぞと顔を出してきた。『ぼく、ヒロコに教えてあげるよ』
 『あんたは黙ってて』突き放すようにアイシャが言う。
 母親のダリアは黙っていた。眉間に皺を寄せ、深刻に考え込んでいた。娘や息子たちの会話をまるで聞いていないようにも見えたが、その実、神経過敏なほど耳をそばだてていた。険しい表情になると、彼女の端正な顔立ちは、砂漠に住むトカゲのように皺だらけになり、老けて見えた。
 テントの中は薄暗い。
 彼女は紅茶を喉に流し込んだ。それから首を横に振った。
 『ヒロコは乳しぼりを覚える必要はないわ』
 『どうして』
 『彼女はここを出ていかなくちゃいけない』
 子供たちは三人とも食事の手を止めた。皆一様に驚きの表情を浮かべていた。その雰囲気で、当のヒロコも何か不都合なことが起きたことを悟った。
 ハサンが母親の衣の裾をつかんだ。『ヒロコはまだ病人だよ。砂漠に出ていくのは無理だよ』
 『出ていくのよ』
 そう言うダリアの目は厳しい。潤んでるようにも見える。二姉妹は声も出せずに母親を見つめた。
 『出ていくのよ。ヒロコはここにいれば、もっと不幸になるわ』
 誰も、何も言い返さない。
 ヒロコは静かに立ち上がった。言葉はわからなくとも、おおよその状況を理解できたからだ。まるで雨女サキコのように、ダリアや子供たちが何を考えているかわかるような気がした。
 自分はここを、出ていかなければいけない。
 しょせん、自分の居場所ではないのだ。だが、ここを出て、どこへ向かえと言うのか。この異国の砂漠地帯で、自分はたった一人放り出されるのか。帰る場所は、ない。頼れる人もいない───そう考えると、彼女は急に胸が苦しくなった。立っているのもやっとであった。呆然と佇むヒロコに、ダリアが声を掛けようとしたそのときであった。
 外で銃声が立て続けに何発も鳴った。大気をつんざくような音。テント村一帯が騒然とした。
 男たちの怒号が聞こえる。
 『敵だ!』
 『スンニ派の連中か? イスラエルか? アルカイダか? どこの連中だ!』
 『わからない!』
 『戦車が来るぞ! 戦車の大群だ!』
 『逃げろ!』
 『応戦するんだ!』
 『逃げろ!』
 ダリアの行動は素早かった。彼女はすぐさま荷物の下からライフル銃を取り出し、弾丸を装填した。ヒロコには見覚えのある形だったが、年式がよほど古いように見える。アイシャとジャミラは抱き合って怯えた。アイシャはすでに泣き出しそうである。ハサンは十歳の子供とは思えないほどの怒りの形相で立ち上がり、奇声を上げると、棒切れを持って外に飛び出した。
 『戻ってきなさい、ハサン!』
 ダリアはハサンを追うようにして、銃を抱いたままテントを飛び出した。続いてヒロコも。彼女はAUSP時代に叩き込まれた習慣で、とっさに戦闘用ベストを探したが、もちろんそんなものはなかった。自分用のライフルもない。ただ、戦闘態勢に入らなければいけないことは冷静に自覚していた。
 外に出てみると、すでに喧騒状態であった。砂ぼこりの舞う中を人や家畜が右往左往し、怒声や悲鳴が飛び交う。男たちはライフルを手に、ある者は馬に乗り、ある者は女たちを避難させた。杖を突く老人はひたすら天を仰ぎ、コーランを唱えた。女たちは、逃げ惑う者、羊やラクダを何とか安全な場所に誘導しようとあたふたする者、大声で呪いの言葉を叫ぶ者。しかしほとんどの者は、岩陰のある方へ全力で走り出していた。
 『シリア解放戦線だ!』
 『奴らが来た!』
 『皆殺しにされるぞ。奴らは人間じゃない・・・逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!』
 ヒロコは遥か彼方の地平線に信じられない光景を見た。
 戦車が合わせて六台。砲口をこちらに向けて近づいてきている。その間三キロメートル。戦車の立てる振動が柔らかい地面を伝わって体を揺さぶるような気がした。戦車の周りには何人かの歩兵も見えた。
 銃を持って立ち向かおうとする者は皆無に等しかった。兵力の差は歴然としていた。だが、よく見ると何かがおかしかった。少年だ。一人の少年が、逃げ惑う人々に背を向け、戦車の群れに向って棒切れを振り回し、何か喚いている。
 ハサンである。ヒロコは愕然とした。
 「ハサン!」
 ヒロコは思わず叫んだ。母親ダリアの叫び声もそれに折り重なった。少年は引き返そうとしない。死んだ父親の仇が来たとでも思いこんでいるのだろうか、彼は全身全霊でもって、戦車に向って罵り続けた。
 一台の戦車の砲身が、正確な角度で少年に向けられた。
 <まさか>ヒロコは心で激しく否定した。<まさか、無抵抗の子供を狙うつもり?>
 戦車が揺れた。まるで、戦車が撃たれたかのようであった。しかし、実際には戦車が撃ったのだ。
 強烈な爆音とともに空に達するほどの砂煙が上がり、ヒロコは思わず地面に倒れ伏した。顔を上げると、先ほどまでハサンのいた場所の大地が抉り取られていた。ハサンの姿はすでになかった。彼の幼い姿は、どこにも見当たらなかった。
 母親ダリアの悲痛な叫び声が耳をつんざいた。二人の姉も泣き崩れた。
 あらゆる騒音が急に遠ざかったようにヒロコは感じた。焦げ臭い、と不思議なくらい冷静に心に思った。戦車の砲弾って、こんなに焦げ臭いんだ。それともこれはハサンが焼け焦げた臭い? 何なのあの戦車たちは? ハサンが何をしたと言うの? 子供一人殺すのに、あの人たちは主砲一発使うの? 
 <許さない>
 ヒロコは片膝を立て、立ち上がった。
 息子の命を奪われた母親がライフルを抱え、戦車に向って走り出すのが横目に見えた。彼女を止める男たちの声が聞こえる。ヒロコ自身に対しても、伏せろとか逃げろとか何か言われているのがわかった。だがヒロコは、しっかと大地に立ち、今やダリアに照準を合わせつつある戦車を睨んだ。その姿はまるで、憤怒と冷静沈着を併せ持つ不動明王のようであった。
 一瞬、ヒロコの脳裏を、憤りとは別のものが掠めた。それはほとんど心地良いほどの驚きだった。ここは、なんとわかりやすい世界なのだろう。殺すか、殺されるか。あの馬鹿馬鹿しいほど破壊的な戦車に比べたら、自分の存在は、ここでは、それほど異質じゃない───ヒロコは自分の存在意義が妙なかたちで承認されたような、小気味良ささえ感じていた。
 彼女には、絶対の自信があった。それは今までにないものであった。これが、AUSPでの訓練の成果なのか。自分はもはや、「病人」ではない。有能で精密な「兵器」になろうとしているのだ───ヒロコは刹那に、そんなことまで考えた。
 石ころだらけの砂漠の上に、朝日はすでに高く輝いていた。雲一つなかった。もともと砂漠にはほとんど雲がない。全ては公開処刑場さながらに明るみに曝け出されていた。泣き叫び逃げ惑う人々。今や二キロメートルまで近づいた戦車の列。最終的にはすべて者たちの死を待ち、呑み込もうとしているかのように絶対的な沈黙を保つ、果てしない不毛地帯。
 <死ね>
 
(つづく)

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