ヒロコの運命は一変した。アラジンのランプで魔法にかけられたかのようであった。もう少しで砂漠に一人追いやられ、朽ち果てたかも知れない、そんな寄る辺ない身の上から、一足飛びに、アル・イルハム部族(それが彼女を匿った部族の名前であった)の守護神的存在に祭り上げられたのだ。生と死の境するこの不毛地帯で最も不幸な立場から、一夜にして最も恵まれた地位へと上り詰めたことになる。
彼女は彼女専用のテントを一張り与えられた。六人の侍女と高価な衣装と、毎日食べきれないほどのご馳走を提供された。夢のような生活であった。ヒロコは戸惑ったが、拒絶しなかった。一つに拒絶の方法を知らなかったのと、もう一つに、これは同情に値するが、彼女としては、人生で初めてちやほやされたのだ。それもいきなり、アラブの王族並みのとびきり豪勢なちやほやである。どんなに慎み深く控えめな性格でも、その誘惑に抗することはできなかったろう。ヒロコは着飾った。胸を張り、毛織物のソファに優雅に寝そべり、銀の器からなつめやしの実を取って食べ、そして、傲慢さを身につけた。
人々は彼女の前に額づいた。族長も。もちろんダリアの家族たちも。
アル・イルハムとしても、シリア解放戦線の報復攻撃に備えて、是が非でもヒロコに部族内に留まってもらう必要があった。
シリア解放戦線は実際、すぐ反撃に出た。だが、戦車であろうが騎兵であろうが、ヒロコの視野に入った途端に炎上させられては、太刀打ちできなかった。特殊能力の持ち主も戦闘員に駆り出された。彼らはヒロコの心理を操作しようとしたが、彼女はもはや完全に心を閉ざす能力を身につけていた。ヒロコにかなう者はいなかった。アル・イルハムは瞬く間に勢力を広げ、一大軍事組織になった。もともとは政府よりであったが、いつしか政府を脅かすほどの存在になった。シリア政府もようやく、国家安全保障に関わるという理由で鎮圧に乗り出したが、時すでに遅かった。アル・イルハムには国内から、また隣国から、さまざまな思惑の人物たちが参入してきていた。協力を申し出る者、政治的利用を狙う者、軍事顧問を名乗る者・・・。組織は次第に、征服欲と支配欲にまみれ始めた。拡大それ自体が目的化した。案ずることはない。我々にはヒロコがいる。
ヒロコ。彼女の名前は瞬く間に中東全域に───いや、世界中に広まった。
ダマスカス行きの飛行機の機内で、それらの事実を改めて確認した日本人がいた。日焼けした鷲鼻の顔。新調の高価なスーツ。膝元に英字新聞を広げているが、記事を読んでいるようには見えない。先ほどから写真ばかりを睨んでいる。写真は二点、一つは黒いチャドルに顔を隠したヒロコの写真。もう一つは墜落して燃え盛る戦闘機。鷲鼻の彼は爪を噛みながら怖い形相で考え事をしている。ときどき呻き声を漏らす。彼が呻くたびに、隣の白人女性が眉を顰める。
呻く男は、織部警部補である。
彼の視線は紙面にありながらも、心の中では思い起こしていた。およそ二か月前のことだ───────。
駅前の食堂で飲んでいた彼は、下膨れでてかてか顔の、橋爪と名乗る男に声を掛けられた。「商談がある」という彼の誘いに乗り、小料理屋に場所を移して話を聞いた。驚いたことに、橋爪は自分の身分を、アメリカNASAの仲介人だと明かした。
「へへへ、びっくりしましたか」
橋爪は織部の反応を楽しむように口の端に唾液を溜めて笑った。「無理もありませんやね。たかが一人の女子高生のために、ついにNASAが動き始めたんですわ」
織部は不信感でいっぱいの表情で相手を見返した。
「目的は何だ」
「もちろん、研究ですよ。研究です。人類の発展と世界の平和のための研究ですわ。願っただけで人を燃やせる少女がいるなんて言ったら、そりゃ研究の価値が大有りでしょ。NASAはそういうことでは常に世界の先駆者たれ、と思っていますからな」
酔いを醒まそうと懸命に首を振りながら、騙されてはいかんぞ、と織部は心に何度も叱咤した。
「俺に何の用だ」
「彼女を捕まえていただきたいんです。あなたは彼女と面識があり、過去の事件で捜査担当だったってことも知っています。彼女はもともと閉鎖的な性格だ。孤独な十七の女の子だ。彼女の両親というのも、実の両親ではないそうですな」
織部はますます驚いた。その情報を、彼は最近ようやく入手したところだったのだ。
「あんたどこまで知ってんだ」
「あなたの知っている範囲のおよそ一、五倍くらいですよ。でもそれ以上じゃありません。へへ。彼女の潜伏している先は、遠からず我々が突き止めます。しかし彼女との直接の交渉は、彼女の良く知っている人物が適当だろうとNASAでは思っとるんです。幸い────いや、不幸にも、と言うべきでしたな、あなたはヒロコの事件の管轄を外され、職業への意欲を無くしておられる」
顔をどす黒く染め、織部は押し黙った。
「いや、隠されんでもいい。我々にとっては都合のいいことなんですわ。え? そんなことまでよく調べ上げたなと思っておいでですか? NASAを舐めちゃいけません。まあ、今回のことには他のいろんな機関も協力しているんでね。実にいろんな機関がね。言ってみりゃ、アメリカ一国がこぞって彼女を欲しがっているんです」
今度は顔から血の気が退くのを、織部は感じた。「まさか、CIAとかも絡んでいるのか」
「ま、何でもいいんですよ。上はね。上が誰であろうと、我々下々は命令されたまま動き、約束の金をもらえばいいんです。そうでしょ? とにかく、わたしゃ仲介人としてあなたを確保すればいいんで。へへ。NASAは、あなたの身分と財産を保証します。警察官は病気を理由に休職していただきたい。だが警察を辞めている間も、警察だった時と同じように、いやそれ以上に行動できる自由が与えられます。いい話でしょ? 今よりずっと懐も温かくなりますぜ。へへへへ。ヒロコを探し出す心配はございません。それはNASAやその他の情報網が、遠からずやってのけます。心配ご無用。あなたの使命はヒロコと交渉し、NASAに手渡すこと。それだけです。それが終わればまた警官に戻ってもよし、報奨金を元手にカリブ海あたりでバカンスを決め込んでもよし。取り敢えず当座の資金として、あなたにはこれだけが与えられます」
橋爪の差し出した五本のむっちりと太った指を、織部は、グロテスクな蛾の幼虫でも見るように眺めた。
「五十万か」
「五千万です」
眩暈がした。
「ヒロコを受け渡すことに成功すれば、さらに同じだけ」
本当に昏倒してしまうんじゃないかと、織部は思った。もちろん酔いのせいではない。金額で目がくらむなんてさすがに恥ずかしいことだと、彼は必死に眉間に意識を集中させた。
「なんで・・・それにしても、どうして俺なんだ? なんで俺みたいな者にそんなに出す気なんだ、アメリカは」
橋爪はビールを織部のグラスに注いだ。しかし目は彼から離さなかった。
「ヒロコはすでに、日本国内にはおらん、と思われます」
「本当か?」
「わかりませんがね。まあ、あの連中のやることは────あの連中というのは、つまり特殊能力者のことですが────常軌を逸してますんでね。奴らは、ひょっとすると、ぽん、とトランポリンでも跳ぶように跳んで、そのまま海外まで飛んでいったとしても、あながち不思議じゃないですからな。へへへ。いずれにせよ、ヒロコは海外に潜伏した可能性が高い。海外にいるとなると、ちとややこしくなるんです。捕まえるのがね。でもあなたは日本人で、警察として有能でおられる。ええ。そして、何より、ヒロコと面識がある。まあそれほど親しくは無いと言いたいでしょうが、しかしあなたのざっくばらんで積極的な性格は、内向きのヒロコと実は通じ合いやすいんじゃないかと我々は睨んどるんです。いろいろ調査した結果ね。つまり、あなたは適任なんですよ。へへ。それに・・・へへへ。まあね」
「それに、何だ」
「え? 言わせるんですか?・・・いやあ、まあ・・・へへ。それに、何よりですな、あなたは昔からヒロコに、個人的に強い関心を持っておられる。非常に強い、ね」
織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。
(つづく)