た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

是々日々(3)

2017年01月31日 | essay

 前回の休日から数日たって、また休日。今度は国民的休日ではないが、私個人の休日である。こう書くといかにも休んでばかりの感があるが、月に一度あるかないかのことである。普段馬車馬のように働いているのだから、たまにはそういう贅沢もあっていいと思う。ただし私一人休日だと、付き合ってくれる人は居ない。今回は明日が早いので、無茶な遠出もできない。そこで、前々からとある知人にしつこく勧められていた、近郊の大衆スパーに独り行ってみることにする。知人いわく、楽しくて一日つぶせるとか。個人的にはどちらかというと、くねくね道をようやく上り詰めたところにあるひなびた隠れ湯的存在が好きなのだが、たまにはいいかな、と思う。

 電車に数分揺られたら、到着。大きな施設である。湯船の種類は両手に余るほどあり、サウナも数種類。岩盤浴、樽風呂、ワイン風呂、マッサージやアカスリの部屋まであり、食事も数店が施設内に軒を並べて盛大である。漫画も読めるしテレビも見れる、おまけにこのようにインターネットまで出来る。確かに一日つぶせそうである。

 しかし、何か落ち着かない。全ての湯船につかり、普段利用もしないサウナまで覗いて回り、電気マサージでゴリゴリしてもらったあとは中華料理屋に入ってビール。それでも落ち着かない。原因はおよそ分かっている。

 偉そうなことを言わせて貰えば、情緒と言うものの欠如である。どの湯に浸かりどの角度から眺めても、情緒が無い。ただし、当然ながら感じ方には個人差があってしかるべきである。現に来館している圧倒的多数の人達は、嬉しそうな顔で十分満喫している。

 少し孤独を感じて、無料利用できるパソコンに向かう。体をほぐしにきてパソコンに向かうとは、私こそ情緒を解さない人間である。

 私は本当に、落ち着き方を忘れてしまったのか。私はもしかして病気なのか。

 病気?

 そうそう、睡魔である。

 睡魔についての論考にそろそろけじめをつけなくてはならない。睡魔はもはや、社会的問題として論じるべきだと言うのが、私見である。国際社会がいまこそ一致団結して────いやあ、こんな堅苦しい話、たとえインターネットサービスの部屋で書いているとしても、斜め後ろでは老人たちが将棋を指して盛り上がっているし、背後では心地よくうたた寝している人もいる。私の横に物珍しそうな顔をしてお爺ちゃんが座り込んできた。なんだかキーボードをカタカタ言わせているだけでも周りの雰囲気を壊しかねないので、また次稿にしようっと。

 

コメント
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