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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~5~

2015年05月31日 | 連続物語


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 砂漠に夜明けが訪れる。
 褐色の大地に靄が立つ。岩肌が光る。目覚めたばかりのラクダが鼻息を荒げる。
 開けっ広げの黒いテントの下で、毛布を被って横向きに伏したまま、ヒロコはじっと外を見つめた。
 ここはシリア南部、ヨルダンとの国境にほど近い砂漠地帯である。
 砂漠と言っても石だらけである。枯れたような草がところどころに生える。遠くにはごつごつした岩山が連なる。どこまでも荒涼とした風景である。この風景は、見る者から安っぽい笑顔を奪う。ただ眺めているだけでも、眉間に深い皺が刻む。
 ベドウィンたちのテントが二十七張りほど集まっている。その一つに、半月ほど前から、ヒロコは一家族と共に寝泊まりしている。母親のダリア、ヒロコより一つ年下のアイシャ、二つ下のジャミラ、そして年が離れて十歳の弟ハサン。ダリアはイブン=サヘル=ファヘドの三番目の妻であったが、イブンは三年前、イスラエルとの戦闘で死んだ。
 砂漠の上に意識を失って倒れているヒロコをハサンが発見し、このテントで介抱して以来、ヒロコは家族の一員のように扱われている。ヒロコはアラビア語ができない。心も開かない。それでも、手振り身振りで言われたことを何となく理解し、家事を手伝い、食事を共にし、日々を過ごしている。
 今、家族の中で目覚めているのはヒロコだけである。彼女は体を少しだけ動かし、うつ伏せの状態になって、さらに外を眺め続ける。彼女が着ているものは、他のベドウィンの女性たちと同じく、ゆったりとした黒い長衣である。
 羊たちがメーメーと互いを起こし始めた。一羽だけいる痩せた鶏も鳴く。
 『ヒロコ。今朝はあなたが水汲みよ』
 目覚めたダリアがヒロコに声を掛けた。もちろんアラビア語の意味はわからない。が、彼女が指差している桶を見れば、指図された内容はわかる。
 ヒロコは小さく頷き、立ち上がった。
 黒いベールを被り、顔を隠す。桶を手にして、テントを出る。乾ききった風が、彼女を不毛の大地に迎え入れる。
 サンダル越しにも砂地の冷たい感触が伝わる。昼にはまた、熱せられたフライパンのようになるのだろう。
 ヒロコは二つの桶を担ぎ、黙々と歩き続けた。

 末っ子のハサンが上の姉の衣の端を引っ張りながら尋ねる。
 『ねえ、あの人、どこから来たの?』
 『知らない。絶対言わないんだもの』と長女のアイシャ。『シャイフ(族長)が地図を見せても答えないんだから』
 『帰るところがないのね』と次女のジャミラ。
 『帰るところがなくても、来たところはあるわ』と長女は言い返す。彼女は心を閉ざし続ける新参者に 少々不満げである。
 母親のダリアはテントの前に佇み、じっとヒロコの後姿を見送っている。
 『砂漠にたった一人、置き去りにされたんだから、不幸な子よ。アラーのお恵みがあの子にありますように。さあみんな、毛布を片付けて。朝食の準備よ』

 砂漠を行く一頭のラクダのように、ヒロコは歩き続けた。
 心の中に湧き起るものは、来る日も来る日も、同じであった。疑問と、困惑と、憤り。なぜ、予言者は自分をこの地に送り込んだのか。ここが中東に位置するシリアという国であることを理解するのに、ヒロコは三日もかかった。ベドウィンのテントの中で意識を取り戻したとき、何が何だかまるで分らなかった。予言者はなぜ、こんな僻地に自分をトランスポートさせたのか。これは彼の気まぐれな悪戯か? 日本人が一人もいない地の果てで、焼け付く日を浴び、喉の渇きに苦しみながら死んでいけばいいとくらいに思われたのか。だがそれではおかしいではないか。だって彼は、自分に生きることを勧めた。人類の天敵として生きればいいとまで言った。それに─────。
 ヒロコは井戸場にたどり着いた。一人の婦人が先に来てポンプから水を汲んでいた。向こうがアラビア語で短い挨拶を交わしてきたが、ヒロコはどう返していいかもわからないので、黙っていた。婦人は険しい目つきでヒロコを睨んでから、水の入った桶を手に去って行った。
 ヒロコは錆びついたポンプを動かし、二つの桶に水を満たした。
 ───それに、自分はユウスケ君に会いたいとお願いした。ユウスケ君に会うにはどうすればいいかを尋ねた。それなのに、なぜ。なぜシリアなのか。あの男は、どこまで自分をなぶり者にしたのか。許せない。絶対に許せない。あんな奴、会った時すぐに燃やしてやればよかったのだ───。

 ヒロコが水を汲んでいるさなか、ダリアたちのテントを、ラクダに乗った男が訪れていた。黒い鼻髭を横に伸ばし、アラブ人特有の垂れ気味で彫りの深い目つきをした、族長のアブドゥル=ラフマーンである。頭に巻いたスカーフを風になびかせ、彼はテントの前に降り立った。
 ダリアがそれを迎え入れた。
 『シャイフ(族長)・アブドゥル=ラフマーン様』
 『ダリアよ。家族の皆は元気か』
 『アラーのお導きによって』
 『結構だ。ヒロコは、今、ここにいないな』
 『はい。仰せの通り水汲みに行かせています』
 『うむ』族長は頷き、落ち着かなげに周囲を見渡した。『部族会議の結論が出た。ヒロコについてだが、やはりこのままここに置いておくわけにはいかない』
 ダリアは目を伏せた。
 『あの子がムスリムでないことが一番の要因だ。異教徒を我が部族の中に留め置く危険は、お前も分かろう』
 『あの子はまだここに来て数週間しかたっていません。アラビア語もわかりません。アラビア語が話せるようになれば、必ずあの子はムスリムになります』
 族長アブドゥル=ラフマーンは苛立ったように指で頬を掻いていたが、身を屈めると、見開いた目を未亡人に近づけた。
 『もしあの子がコーランを選ばなければ、あの子は侵入した異教徒として、ここの部族の男たちの餌食となろう』
 ダリアは衝撃のあまり息もできなかった。
 『シャイフ様、あれは、まだ子どもです』
 『選択できる年齢だ』
 『あれは、自分の意志を言葉にすることすらまだできないのです』
 『あの子の頑なさが我々の決定に従うことを拒むなら、同情の余地はない』
 『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様。あの子は、ここを出ても行くあてがないのです』
 『異教徒にここで暮らす道はない』
 族長はラクダに跨った。
 『三日だけ猶予を与える。ヒロコに答えを用意させておけ』
 族長を乗せたラクダは砂塵を上げて去って行った。

(つづく)


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