不意に、本から白いものが落ちた。手紙である。彼は慌てて身を屈めて拾い上げたが、そのとき代わりに眼鏡が落ちた。手紙はすでに濡れそぼちていた。眼鏡の方は拾いもせず、彼は震える手で便箋を広げた。ボールペンで濃く書かれた柔らかい筆跡───それは彼の母親の手になる手紙であった。三日前に届いたその手紙を、アパートを飛び出す寸前栞代わりに本に挟んで持ち出したことを、今の彼はすっかり忘れていたのだ。
その手紙の文面は暗唱できるほど覚えていたわけではない。車軸を流す大雨の中、彼は目を極端に便箋に近づけて再読しなければならなかった。
便箋は叩きつける雨粒で破れんばかりに形を崩した。目を開けるのも一苦労であった。その上彼はひどい近視であった。それでも彼は必死に読んだ。
「何シテいますか。
昨日 アパートの大家さんから電話ありびっくりしました。二週間も部屋ひきこもりキリッのこと。
いけません。絶対いけません。そんな健康に悪い体に悪い事すぐにお止なさい。
大家さん ずいぶん心配しとられました。家賃ノたい納でこまってられる。でもあの人はそんな事よりお前ノ体を気づかってくださいます。
お前いつから、他人様に心配かける子になったんですか? いつから他人様に迷惑かける子になったんですか?
すぐ帰ってきなさい。すぐ帰ってくる事。すぐ帰ってきなさい。こちらは大丈夫です。こちらは新しいパート先は前とちがってしっかりした会社です。そうヤスヤスつぶれたりしません。未払もないです。お前を養うくらいナンでもありません。
すぐ帰ってきなさい。帰ってこないなど言わないでください。ガンコ 言わないでください。お前はつまらないところガンコです。前ノ前ノ電話覚えてますか?絶対もどらないと言張って、お母さん とてもとても悲しかったですよ。
お前はお母さんに迷惑かけないようにしようと、シテ、ギャクにお母さんを不幸な思いさせています。その事わかってますか?
浩や、 お前は先生向かなかったネ。本当にすまない事シタと思っています。ゆるしとくれ。死ンダお父さんが先生だったから、お前も先生にふさわしい と思ってました。私がムリにすすめた、のがよく無かったのだよ。ゆるしとくれ。帰ってきとくれ。
私はお前ノそだて方まちがいました。お前がいけないところは ぜんぶお母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。お前は世わたりベタですが、お母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。すぐ帰っとくれ。
ゴハンをしっかりたべて、どうかバカなまねは止なさい」
彼は手紙を元のように折りたたんで本に挟んだ。すでにそうするのも難しいくらい雨水を含んでいたが、彼は眉間に深い皺を刻みながら震える手先を睨んで、丁寧にそれをし終えた。それから地面に膝をつき、倒れこんだ。
橋の下、雨脚をはじく灰色の川のほとりで、本を胸に押し当てたまま、彼は泥まみれになってのた打ち回った。激しい雨はその間も容赦なく彼の体を冷やした。彼の頬を次々と伝うのが、涙なのか雨粒なのか見ただけではまるで判別つかなかったが、長く尾を引く彼の呻き声がそれを知らせた。
(おわり)
出典:『ミケランジェロの生涯』ロマン・ロラン/蛯原徳夫訳 みすず書房 1958
その手紙の文面は暗唱できるほど覚えていたわけではない。車軸を流す大雨の中、彼は目を極端に便箋に近づけて再読しなければならなかった。
便箋は叩きつける雨粒で破れんばかりに形を崩した。目を開けるのも一苦労であった。その上彼はひどい近視であった。それでも彼は必死に読んだ。
「何シテいますか。
昨日 アパートの大家さんから電話ありびっくりしました。二週間も部屋ひきこもりキリッのこと。
いけません。絶対いけません。そんな健康に悪い体に悪い事すぐにお止なさい。
大家さん ずいぶん心配しとられました。家賃ノたい納でこまってられる。でもあの人はそんな事よりお前ノ体を気づかってくださいます。
お前いつから、他人様に心配かける子になったんですか? いつから他人様に迷惑かける子になったんですか?
すぐ帰ってきなさい。すぐ帰ってくる事。すぐ帰ってきなさい。こちらは大丈夫です。こちらは新しいパート先は前とちがってしっかりした会社です。そうヤスヤスつぶれたりしません。未払もないです。お前を養うくらいナンでもありません。
すぐ帰ってきなさい。帰ってこないなど言わないでください。ガンコ 言わないでください。お前はつまらないところガンコです。前ノ前ノ電話覚えてますか?絶対もどらないと言張って、お母さん とてもとても悲しかったですよ。
お前はお母さんに迷惑かけないようにしようと、シテ、ギャクにお母さんを不幸な思いさせています。その事わかってますか?
浩や、 お前は先生向かなかったネ。本当にすまない事シタと思っています。ゆるしとくれ。死ンダお父さんが先生だったから、お前も先生にふさわしい と思ってました。私がムリにすすめた、のがよく無かったのだよ。ゆるしとくれ。帰ってきとくれ。
私はお前ノそだて方まちがいました。お前がいけないところは ぜんぶお母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。お前は世わたりベタですが、お母さんノ責任です。お前は まちがっておりません。すぐ帰っとくれ。
ゴハンをしっかりたべて、どうかバカなまねは止なさい」
彼は手紙を元のように折りたたんで本に挟んだ。すでにそうするのも難しいくらい雨水を含んでいたが、彼は眉間に深い皺を刻みながら震える手先を睨んで、丁寧にそれをし終えた。それから地面に膝をつき、倒れこんだ。
橋の下、雨脚をはじく灰色の川のほとりで、本を胸に押し当てたまま、彼は泥まみれになってのた打ち回った。激しい雨はその間も容赦なく彼の体を冷やした。彼の頬を次々と伝うのが、涙なのか雨粒なのか見ただけではまるで判別つかなかったが、長く尾を引く彼の呻き声がそれを知らせた。
(おわり)
出典:『ミケランジェロの生涯』ロマン・ロラン/蛯原徳夫訳 みすず書房 1958
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