た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

北陸旅情(1)

2017年10月03日 | 紀行文

 永平寺を目指そうと思い立った。

 禅宗曹洞宗の総本山。福井の雪深い林間にひっそりと佇み、開山以来七百六十年間、厳しい修行と戒律で俗世の塵芥を被らずに独自の世界観を守り続けてきた最後の聖域。その空気に接すれば、ひょっとして自分の中の何かが大きく変わるかも知れない。四十代も半ばに差し掛かり、人生後半がおぼろげながら見えてきた。だいたいこんなものかという思いもあり、こんなもので果たしていいのだろうかというためらいもある。生き方を見つめ直すのに、永平寺ほど適した場所はあるまい。

 体験で座禅を組むことも可能だと言う。心を無にし、何かを悟るきっかけになるかも知れない。幸い、万事につけてノリのいい連れ合いが、座禅にもやる気を示した。実は以前、地元松本でも座禅の一日体験を二人で申し込んだことがある。そのときは、連れ合いはどちらかというと精進料理やお茶菓子に興味があってついてきた。しかし今度は本場である。本家本元の座禅である。相当の覚悟が必要だが、それでもやってみたいと言う。精進料理も茶菓子もないよと念を押したが、それでもやってみると言う。

 となれば、もはやこれ以上迷うことはない。連休の確保できた九月末日、我々は一路、車を走らせて福井に向かった。

 

 旅情を重んじ、なるべく下道を採った。松本から安房峠を越えて岐阜へ。飛騨高山から高速に乗り、白鳥まで南下、再び下道を通って北上。渓谷を走り、福井県は永平寺町へ。所要時間、五時間。

 

 永平寺は、一大観光地だった。

 門前町には土産物屋が並び、ごま豆腐や「禅」と描かれたTシャツなどが所狭しと並べて売られていた。観光バスが何台も並び、ソフトクリームを舐める若者やみたらし団子を頬張る年寄り、自分たちの写真を撮るカップル、祖国の言葉で喋り合う外国人観光客などで溢れていた。私は愕然として、思わず参道に膝を突いた。求めていた静謐な空気はそこにはなかった。何事につけノリのいい同伴者は、意気消沈する私を写真に撮って笑っていた。

 いやしかしいったん門を潜りさえすれば。一歩境内に足を踏みさえすれば。と一縷の望みをかけて寺院の敷地内へ。さすがに伽藍はどれも大きい。建物の中はしっかりと観光ルートが確保されていて、修行中の僧侶たちの邪魔にならないように、修行のエリアと観光のエリアが区分されている。観光客は庭に出ることさえ許されない。参拝経路の案内表示に従って、ぞろぞろと人波が動く。ときどき用事で行き交う僧侶に遭うと、サファリパークでキリンやライオンに遭遇したように喜んでいる。

 私は中庭への出口となっている渡り廊下に腰掛け、日の降り注ぐ庭の樹木を眺めた。

 これでいいんだ、と私は心に呟いた。もちろん、こうなることはわかっていた。観光産業の発達した現代日本で、歴史と知名度を誇りながら、同時に静謐さを維持できている場所なんてそうあるもんじゃない。永平寺は悪くない。彼らは、観光客を適当にあしらいながら、自分たちの修行を邪魔されない場所で黙々と続けているのだろう。一泊二日の旅で、その一端に触れ、あわよくば悟りの一つもひらきたいなどと願う私みたいな観光客の方が、よっぽどおこがましいのだ。

 永平寺の山門には、扉がない。来る者拒まずの精神らしい。しかし、その神髄を覗き見ることは、容易ではない。

 座禅もなんとなく諦め、ごま豆腐と人生啓発の言葉の書かれた写真集を、家で留守番をする義母のために買い求めると、我々は日の傾きかけた永平寺を後にした。

 

 (つづく)

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