た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

鏡のある喫茶店

2005年09月24日 | essay
 歩きつかれて、その喫茶店に入った。

 不思議な空間の喫茶店であった。昔美容室だった内装を部分的にそのまま利用している
らしい。壁に大きな鏡があり、奥のカウンターにはシャンプー用の流し台がすえつけられている。部屋の中央にテーブルはない。座布団だけが並べられている。瞑想を誘う暗い照明。低く唸るような音のBGM。とても喫茶店とは思えない。

 私は壁際の席に座って、ジントニックを注文した。喫茶店と言いながら、メニューには酒の種類が豊富である。青いライトに照らされた白いタイル張りの壁の向こうから無口な店主が現れ、グラスを置いてまた壁の向こうに消えていった。

 私は口を濡らし、向かいの壁を眺めた。大きな鏡がそこにある。
 
 鏡には私が映っていた。鏡の中の私が私を見つめ返す。太鼓の音が体に響く。

 小さな書棚に目をやると、面白い科学書があった。乏しい照明の中でページをぱらぱらめくる。意識と物質とは同じ現象の裏表である、というようなことが書いてある。

 私は再度鏡の中の私に視線を戻す。あそこに映る私は物質か。それとも意識か。ふん、そういう話ではないんだろうな。ジントニックのグラスは半分空いた。

 私は気になってもう一度鏡の向こうに目を凝らした。そうか。あそこに映るのは、「ワタシ」だ。あれが、ワタシだ。私の意識する、物質としての私だ。自我。じっと私を睨み返すあの「人物」において、意識と物質は確かに融合している。

 鏡がもし外枠を持たず、この目に見える世界がすべて鏡の中の像だとしたら。すべてが、「ワタシ」の反映だとしたら。そんなことを言っている中世の哲学者がいたような気がするなあ。いかんいかん、このジントニックは口当たりが甘い割に、アルコールが強い。

 小一時間後、私は妙な心持ちになってその店を後にした。まるでジェットコースターに揺すられて、地面に降り立ってからも少し浮遊感の残るような、ちょっと吐き気を催すような気味の悪い陶酔感が残る。今度この店を訪れるのは少しばかり勇気がいるかも知れない。

 ライトをつけた車が一台、クラクションを鳴らして私を現実に引き戻してくれた。秋の夜風に一つ深呼吸を済ませてから、私は川沿いの道を再び歩き始めた。 
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