祖母のアイスクリーム作りについて前回書いたので、その関連で少々。
我が家にはかつて、丸火鉢式の石油ストーブがあった。現存するかどうかは知らない。ちゃぶ台を二台積み上げたくらいの形と大きさで、真ん中に加熱部分があり、五徳も付いている。ストーブで部屋を暖めながら、同時に鍋物などを火に掛けることも出来る代物だった。反射板がなく、熱がただ上へ昇るだけだから、熱効率から言えば、決して優れた暖房器具ではなかったろう。
いったいに、山陰の雪国にある実家は、冬となれば石油ストーブだらけであった。各部屋に一台常備されていた。もちろんエアコンなど無い時代だ。トイレにも、凍結防止のため練炭火鉢が置かれていた。それはのちに薄型の電気ストーブに変わった。ファンヒーターという、ちょっと舶来の気のする乱暴で強力な優れ物も世間には出回り始めた。それでもなお、我が家の暖房の主力は、家族の頭数より多い石油ストーブであり続けた。どのストーブにも、つねに薬缶なり鍋なり何らかが載っていた。なかでも丸火鉢式のストーブは、居間の掘りごたつの傍らに置かれ、しばしばちょっとした調理を賄っていた。
その調理役が、もっぱら祖母の仕事だった。
よく目にしたのは、あずきの煮込みだ。小学校から家に帰ると、独特の甘酸っぱい匂いが玄関口まで漂っていた。そういう日は、きまって祖母が丸火鉢の前に座りこみ、背を丸めてあずきを煮込んでいた。錆びなのかもともとの色か、真っ黒な深い鉄鍋に、畑で採れたあずきと砂糖をぶち込み、加熱しながら木のしゃもじでゆっくり混ぜ合わせる。私はこの手作りあずきが、市販のあずきより酸っぱくてどうしても好きになれなかった。家族の健康のため砂糖を控えたせいもあろう。杵でついた餅の中に入れて、あずき餅としてもよく喰わされたが、そんなに好んで食べた記憶がない。和菓子にそもそも興味がなかった。ビスケットや、チョコレートなど洋菓子の方がよほど口に合った。それは子供にとって、大変わかり易い甘さであった。
祖母はあずきの他にもいろいろ丸火鉢に食材を掛けていた。台所は母に独占されていたから、丸火鉢が自分に残された最後の砦と心得ていたのかも知れない。ぼこぼこと穴の開いた鉄板で、たこ焼き作りもよくやった。そういう流行りものの好きな祖母であった。たこ焼きと言ってもたこが手に入りにくいので、「いか焼き」に変じていることもしばしばであった。いずれにせよ、ストーブの熱で作られたたこ焼き(あるいは「いか焼き」)は、祭りの屋台で買い求めるたこ焼きとは、味も食感もかなり違っていた。球体と言うよりはラグビーボールに近い形だった。それでもたこ焼きは、喜んで食べた記憶がある。あれはソースの味が美味しかったのだろう。
干した岩ノリを炙ったり、市販のスルメを炙ったりしたこともあったように思う。祖母は私が高校生になって下宿生活をしているときに亡くなった。朝畑に出て、そのまま畝の間に倒れていたと言うから、ずいぶんあっけない死に方だった。子どもの頃何をして遊んでもらったという記憶もないが、祖母のストーブ料理は、不思議と懐かしい思い出である。
もっと昔は本物の練炭火鉢が、そしてさらに昔は囲炉裏が、それぞれの家庭の「第二調理場」であり、孫と祖父母の交流の場であったのかも知れない。ファンヒーターは効率がいいし、エアコンに至っては経費も含めて叶うものがないが、それでもあの、極めて非効率な石油ストーブに対する愛着を感じる。
それで、と言うべきか、今でも自分の職場では石油ストーブを使っている。箱型のやつであるが。私一人しかいない職場だから、誰も文句は言わない。薬缶を掛けたり、小鍋でレトルト食品を温めたりして、遊んでいる。丸火鉢型にも郷愁があるが、さすがにあれを今買い求める人は少なかろう。
「能率」は生活を改善し、味わいを奪った。
そう思うのは、歳のせいか。
雪深い山陰の実家の居間に鎮座していた、丸火鉢式の石油ストーブ。あれが暖めていたのは、鍋や薬缶だけではなかったと、今になって、つくづくと思う。
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