新年になったが、相変わらず息の詰まりそうな世情である。丁寧に時間をかけて文章を載せる暇がない個人的状況も相変わらずである。仕方ないので、昔存在したが今の社会からほとんど姿を消したと思われる慣習を年寄りから聞いたり自分で思いついたりするまま、ここに断片的にでも書き留めていこうと思う。専用のカテゴリーまで作ったが、一作目で終わるかも知れない。たとえ続いたとしても、当然取材の機会がないので、私個人の記憶が大半を占めるであろう。
色んなことが出来なくなっている今現在の世の中だから、案外、読む人に懐かしんでもらえればと、わずかな期待を寄せている。
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一回目は、ミルク。牛の乳である。
私は幼少期、隣の家まで歩いて五分かかるようなひどい田舎に暮らしていた。その隣家が牛を飼っていたので、牛の乳をもらいによく使いに行かされた。我が家でも牛を飼っていたが、おそらくそれは肉牛で、隣の家は乳牛だったのだろう。よく覚えていない。何で我が家で飼っている牛のミルクじゃダメなのか母親に抗議して、何度説明を聞いてもよくわからなかった記憶が薄っすらと残っている。だいたいがぼんやりした頭の子だったのだ。物わかりの悪い上に我が儘な性分だったから、お使いも面倒くさく、よく駄々をこねた。それでもしばらくの抵抗ののち、結局は空の一升瓶を抱えて隣の家へのあぜ道を歩いたものだ。
私が行くと、向こうではよく来たと喜んでくれ、決まったようにロールケーキを一切れくれた。これが私のお駄賃であった。私の母ではなく隣家がお駄賃を払う理由が今となると多少疑問だが、当時はそれが何よりのご褒美に思え、嬉しかった。うきうきしながら、白いミルクで重くなった一升瓶とロールケーキを両手にあぜ道を戻った。だが後日、また使いに行かされる段になると面倒な気分が再燃するのであった。その度にぶつぶつ文句を垂れ、それでもまた終いには使いに行った。その繰り返しであった。
金銭のやり取りはどこでなされていたか知らない。我が家の稲刈り後の藁を牛の飼料として隣家に提供していたようだから、その見返りかも知れない。いや、その見返りは牛の堆肥だった気もする。いずれにせよ、物々交換がまだ田舎では残っていた時代であった。
ちなみにお使いに行かされたのは、男二人兄弟の中で決まって次男の私であった。兄はうまく立ち回って面倒な使いから逃げていた気がする。あるいは私がぼんやりした子だったから、将来独り立ちできるよう、親がなるべく簡単な使いを私に振り分けていたのかも知れない。
何しろぼんやりしていたから、あぜ道を歩いているうちに、お使いで行かされていることすら忘れる始末であった。空はいつも青く、雲が流れ、あぜの雑草からはいろんな虫が飛び交っていた。
少年時代の思い出である。
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