『ユウスケ君は。ユウスケ君は無事ですか』
それは彼女にとって、最も気がかりな質問であった。
『ユウスケとは』
『テレポートで私をここに連れてきた人。私・・・私、彼を・・・』
『ああ、お前が燃やした男か。無事だ。将来、お前たちは再会する』
感激のあまり、ヒロコは手が震えた。
『また会えるの?』
『ただし、幸福なかたちではない』
ヒロコはひどく落胆した。
『幸福なかたちでないって・・・どういうこと』
ほとんど髑髏の顔が、じっと彼女を見つめる。
『ねえ、教えて! 私たち、会わない方がいいの?』
『会わざるを得ない』
『会わざるを得ないって・・』背筋に寒気を覚えた。自分たちの再会が、互いをさらに不幸にする可能性はある。十分にある。何しろ自分は、彼を焼き殺そうとした人間なのだ。
祈りを捧げる人のように、ヒロコは思わず予言者の前に両膝を突き、胸の前で手を組んだ。藁にもすがる思いだった。
『未来を・・・未来を意志するのなら、未来を変えることもできるんですか?』
『愚か者が。未来がそうなるようにしか意志できない、そう言ったはずだが』
未来がそうなるようにしか、意志できない。ヒロコは呆然と心の中で反芻した。
『人間は自然の一部だ』予言者は続けた。『人間の意志は自然の作用を受ける。同じようにして、自然は人間の意志の作用を受ける。たった一人の人間の思いが、地球の裏側を変えることもある。だがそのたった一人の思いにも、地球の裏側が影響を及ぼすこともある。すべては巨大な因果の連鎖の中にある。どちらが原因でどちらが結果になるかは、すべて、程度の問題なのだ。』
糸を引いた蜘蛛が一匹、ヒロコと予言者の間に降りてきた。蜘蛛に目の焦点が合い、予言者がぼやけて見える。予言者の言葉はあまりに難解であり、ヒロコはひどく混乱していた。だが何となく、納得できる気にもなるのが不思議であった。
蜘蛛は自ら糸を切って地面に落ち、姿を消した。
未来はそうなるようにしか、ならない、ということか。
『私は───どうなるの』
『さまざまな苦難が、お前を待ち受けていよう』
『私、じゃあ、今すぐ死んだ方がいいの』
もし死んだ方がいいと言われれば、今すぐ舌を噛み切って自殺してもいい。それくらいの思いが、ヒロコにはあった。それは心からの痛切な問いかけであった。
予言者は答える代りに、光を増した。日が没し、完全な宵闇が訪れたからである。フクロウの鳴く深い森の奥で、そこだけ丸く小さな光に包まれて、予言者とヒロコは対峙した。
『ヒロコよ』予言者は語りかけた。『お前は自分の能力を恨むことはない。お前の責任は、お前にはない。お前の存在は、自然の成り行きなのだ』
『どういうこと』
『お前は聞いたことがないか。かつて、ある湖で繁殖し過ぎた貝が、自分たちの個体数を減らすために、互いを殺す毒を持ち始めた話を。あるいは、えさ不足になるまで増殖したネズミが、一斉に水の中に飛び込み、集団自殺したという話を。お前は不思議に思わないか。現代社会における、無差別殺人や児童虐待、精子の減少、精神病の増加・・・まるで人類全体が、滅亡へと駆け足で向っているように、お前には思えないか。
『人間は気付き始めたのだ。人間の発展が決定的に悪であるということを。人類は繁殖し過ぎて今やどうしようもない事態に陥りつつあるということを。はっきり意識しようがしまいが、それらは個々人の潜在意識に強迫観念として植えつけられているのだ。人間は今、無意識に、何とかして種の数を減らそうとしているのだ。
『お前の出現はその一例に過ぎない。今後、お前のような殺傷能力のある特殊能力者たちが次々と現れ出るだろう。人類はこれまでにない全面戦争の時代を迎える。それは、国と国とが戦ったかつての戦争とは違う。個人と個人が殺し合うのだ。あるいは自分を殺す。意図して、あるいは意図せずして。道具を使う殺し合いもあれば、道具を使わない殺し合いもある。世界の人口は減っていく。ゆっくりと、着実に。そういう戦争だ。
『お前の悪は、お前のせいではない。お前の存在を必要とするまで肥大した人間社会のせいなのだ。お前がいなくなっても、次のお前が出てくる。ヒロコ。お前の役割は、人類のために人類の数を減らすことなのだ。だからためらうことなく人間を燃やし続けるがよい。お前の力が強大になれば、お前はもっと能率よく、もっと大勢の人間を片付けることができるようになるだろう。それでよいのだ。人類はあまりに長い間、天敵を失っていた。お前は、お前の同胞たちのために、あえて天敵となるがよい。それが、お前の存在する意味であり、お前に課せられた役割なのだ』
予言者の言葉は淡々と、ヒロコの心に注ぎ込まれた。ヒロコは彼の話に打ちひしがれたか? それともなるほどと感銘を受けたか?───とんでもなかった。その代り、何とも不可思議で一種異様な感覚が、ヒロコを捉えていた。ミイラのようにしか見えなかった予言者が、非常に人間臭いものに見えてきた。まるで酔っぱらった大人に絡まれたかのように、彼女は距離を置き、冷静に内なる耳を傾けることができた。聞きながら、心の中では、ずっと首を横に振り続けていた。どれだけ聞いても、反発心しか湧き起ってこなかった。ヒロコはそこまで頑なな性格だったのだ。それは宮渕に語りかけられたときも、エイジの説得を受けたときも同じである。ただ今回は、心が暗く落ち込むどころか、むしろふつふつと生きる力が湧いてくるのを感じた。
まったく唐突な感動だった。ほとんど喜びすら彼女は感じていた。それはユウスケが生きている、という情報を手に入れたからに違いなかった。彼が生きている。彼が生きている限り、彼に会いに行こう。彼女は固く心に誓った。
<だって、会わざるを得ないって、この人も言っていたわ! 確かに、確かにそれは、不幸な再会になるかも知れない。私たちはひどく辛い思いをするかもしれない。そうなったら本当に悲しい。でも、私は───私は絶対に、不幸になるようには意志しない。私は全力で、未来を変えてみせる。変えてみせるわ。意志の力ってそういうことでしょ? 私にその力がないとは限らないじゃない? だって、他の人にはない力を持っているんだもの。ある意味、たぶん、私は特別なのよ。役割? ふざけないで! 人殺しをすることが私の運命だって言うの? 冗談じゃないわ。未来がすでに決定してるって、いったい誰が決めたの? 私は彼に会って、謝るわ。泣いて謝るわ。許してもらえないかもしれない。たぶん、許してもらえない。でもユウスケ君なら、彼なら、許してくれる気がする。仕方がなかったんだよって。心を操られていたんだからって。あの人、優しい人だから。許してくれるまで、何度でも謝ろう。何度でも、土下座してでも。それで、もし万が一、許してもらえたら。もし、また彼を好きになることが許されるなら───。>
ヒロコは、かつて初等訓練の時、フミカに言われた言葉を思い起こしていた。
<───もし、彼が再び私を受け入れてくれるのなら、私は今度こそ、全力で彼を愛すわ。私たちは本当に愛し合うのよ。恋人同士として、心と、体で。全身全霊で。それでフミカさんの言う通り私の能力が消えてなくなるなら、それこそ本望だわ! 私喜んで、今の自分を捨てるわ! もう二度と、人を燃やさない。能力なんて、何もいらない。そのためにできることを何でもするわ。心を強くする必要があるんだったら、強くするわ。弱くすることが必要だったら、弱くするわ。わかんない! でも、私、なんだってやってみせる。ユウスケ君のために。彼なら、答えを知っている。彼なら、私を正しく導いてくれる。そう。きっと。彼は私のことを怒ってるかしら? もちろん怒ってるわ! 私に許される資格なんて・・・でもいいの。私は唾を吐きかけられても、足蹴りにされても、彼のもとへ行くわ。彼に死ねと言われれば、その時死んでみせる。死刑にされるなら、喜んで処刑台に上がる。それでも、私はユウスケ君にもう一度会う。もう一度。その時すべてが決まるのよ。その時まで、私は生きてみせるわ!>
それらのことを、ヒロコは予言者の落ちくぼんだ眼窩を見つめながら、一息に思ったのだった。予言者は相変わらず身動き一つしなかった。ヒロコは、彼が自分の心境の変化を面白がっている気がしてならなかった。
ヒロコは立ち上がった。
『ここからどこへ行けば、ユウスケ君に会えるの』
『思った以上に、頑迷な女よ』
初めてヒロコは微笑んだ。
『あなたにも予想できないことがあるのね』
『予想ではない。意志するのだ』
『そう。希望がわいたわ。どこへ行けばいいのか、道案内はしてもらえるの?』
二人を包むほの明かりの外側は、いつの間にか漆黒の闇であった。フクロウがどこかでしきりに鳴いていた。草木がさざめき、遠くで獣同士が互いを呼び交わした。
予言者は、長い嘆息をつくほどの間をおいた。
『ご覧の通り、動けない体だ。私は、自分の一生の中で、お前に会うことまでを意志して生きてきた。死ぬまでに、お前に会えればよかった。私の望みはここまでだ。やがて私は朽ち果てよう』
ヒロコはじっと予言者を見つめていたが、ふと、思い出したように、貫頭衣の袖口に手を入れた。そこから、一切れのパンを取り出した。それは二日前ユウスケに言われていた通り、脱出の際密かに持ち出したものである。
彼女はパンを予言者に差し出した。
『じゃあ、これであなたの予言を変えるわ。もう少しだけ、長生きしてもらえるかしら。私のために』
今度こそ、予言者は笑った。ほとんど肉のついていない頬が引き攣り、口が開いた。
『私の意志を凌駕するつもりか』
『食べて。できるんでしょ?』
『実に、面白い子だ』
ヒロコの手にしたパンは、粉々に砕け、空中に浮遊した。さらに砕け、目に見えなくなるほどに細分化された。それらは掃除機に吸いこまれるように、予言者の口へと入っていった。
ヒロコは彼の能力の高さに今更ながら驚いた。
『あなたは、AUSPの人たちより、高い能力を持つの?』
『エイジは、かつて私の弟子だった』
驚く暇もなく、ヒロコが経験したことのない現象が、さらに起きた。座禅を組む予言者の体から、もう一人の彼の輪郭が、幽体離脱したように出てきたのだ。
背景が透き通って見えるそのおぼろげな輪郭の身体は、座禅を組む体と違って自由に関節が動いた。それは、ヒロコの前にすっくと立った。
恐怖におののいたが、後退りすることなく、ヒロコは目を見開いてその霊体を見つめた。
『食べ物をいただいた礼だ』
そう言うと、霊体の予言者は、両手を差し伸べてヒロコに触れた。ユウスケがテレポートを使ったときと、同じ感覚がヒロコの体内に湧き起ってきた。
どこかに、連れていかれる。
『どこへ行くの』
不安は最高潮に達した。
『私の意志だ。お前には旅をしてもらう』
から、から、と、予言者が笑い声を上げたような気がした。
激しい衝撃が、ヒロコを襲った。
───森に闇が戻った。
夜風が通る。どこかで、野猿が甲高く鳴く。
月の光も差し込まない粗末な小屋では、あばら骨の浮き出た予言者が、ただ一人、誰も拝む人のいない石像のように、黙然と座禅を組み続けた。
(つづく)
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