「アイスが食べたい」
日本語で言い放った。
ジャミラは眉を顰め、顔を覗き込んだ。「What?」
「アイス。アイスよ。アイスクリーム」
「Oh. No. No ice cream」
「わかってるわよ。どうせここには冷蔵庫がないもの。こんな砂漠のど真ん中じゃ」
「マーファヒムトアレーク」
ヒロコの苛立ちは頂点に達した。「アラビア語でしゃべらないでよ。イングリッシュ。イングリッシュ!」
ジャミラはうろたえて天幕を出て行った。
残されたヒロコは舌打ちする。宝石を嵌めた指が震え、髪が乱れる。自分はこんなところで何をしているのだろう、と彼女は思った。日本語の通じない、暑くてもアイスも食べられないような辺鄙な場所で。
何をしているか? 殺人をしているのだ。殺人────それ自体は、回を重ねるごとに、ヒロコの心を前ほどかき乱さなくなっていた。そのことも彼女自身驚きであった。彼女は自分が人の死に関して不感症になっているのを自覚した。だが、ずっしりと重い、まるで焼け焦げた死体が自分の胸に次々と折り重なっていくような重苦しさを、日を追うごとに強く感じていた。
ヒロコは吐息をついた。
ジャミラは背の高い通訳の男を連れて戻ってきた。彼の名はサリム=カルハシュ。ヒロコがこの地で意識を回復して以来彼女の通訳を任されている。この部族で唯一英語のできる男である。鼻髭を蓄え、彫りの深い目をしている。
彼が入ってくると、ヒロコの様子が変わった。さりげなく髪の乱れを直し、毅然とした態度を取る。頬がうっすらと紅潮している。
サリムは深くお辞儀をした。それから、『何をお望みですか』と英語で尋ねた。
ヒロコは伏し目になり、小声の英語で答えた。
『彼女を外へ』
サリムは頷き、ジャミラにアラビア語で外へ出るよう指示した。ジャミラは驚きと憤りの表情でじっとヒロコを見つめると、部屋を出て行った。
広い天幕に、青年と二人きりになった。ヒロコは脇の天幕を見つめながら、熱い吐息をついた。
サリムは凛々しい眉の奥にある情熱的な眼差しで女主人を見つめた。その視線を、目を合わさなくともヒロコは痛いほど感じ取っていた。ユウスケは────ユウスケはもちろん、彼女の思い出の中で依然として大きな位置を占めていたが、いかんせん、彼はここにいなかった。会える見込みもなかった。果てしない砂漠と打ち続く戦闘は、ヒロコの精神をひどく疲弊させた。どれだけもてはやされても、心は洞穴のように空虚であった。虚しさのあまり死んでしまうのではないかと思った。何より彼女は若かった! 彼女は慰めを欲していた。また、慰めを求めても許される地位にあった。
紅潮した顔をさらに火照らせ、ヒロコは視線を落としたまま、小さく頷いて見せた。それが合図だった。サリムは興奮した眼差しで彼女を見つめたまま足元まで近寄ると、その場でひざまずき、額が床に突くほどの礼拝をした。
「サイェート(ご主人様)」
そうつぶやくと彼は面を上げ、ヒロコの右の素足を両手に取り、接吻した。
ヒロコは目を閉じた。
足の甲に潤いを感じた。そして情熱。接吻は儀礼的なものに終わらなかった。柔らかく離れ、また柔らかく戻ってきた。足の甲から、指先、土踏まずへと。ヒロコは目を閉じて口を半開きにし、官能の疼きに身を委ねた。
なぜか哀しくて涙が目に溢れた。
絶えず監視される身である主人と下僕に許された、これはぎりぎりの戯れであった。どちらが言い出したわけでもなく、始まり、続いてきた戯れであった。これ以上は決して進んではいけない、という暗黙のルールだけがそこにはあった。
だが今日はサリムの方が興奮していた。彼は我慢ができなくなったのか、思わずヒロコの足首を強く掴んだ。あっ、とヒロコが思ったちょうどその刹那、天幕の外からジャミラのアラビア語が聞こえてきた。
『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様がお越しです』
(つづく)
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