た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

音のない花火

2005年08月16日 | essay
 久しぶりに寝坊をしてしまった。寝坊といっても夜八時に目覚めたのである。目覚めの時刻としては自己新記録かもしれない。徹夜明けで昼近くに眠るとそういうこともあるのだろう。
 仕方ないから夜の街を散歩した。小雨が降ったり止んだりしていたが、静かな散歩にはそれくらいがちょうどいい気がする。女鳥羽川の河川敷を歩いていたら、街の向こうに大きな花火が上がった。大きいといってもずいぶん遠くに違いなく、音は聞こえない。ただ、間抜けするくらいの感覚を置いて大輪が順番に咲いていくだけである。
 それでも私は、ずいぶん美しいと思った。正直、花火には少し食傷気味のところだった。豪勢な花火大会も結構だが、ほとんど連日のようにどこからかドンドン地面を震わせている。虫の音の聞こえる叙情ある夜を火薬の爆発でたたき起こすのは、あって一年に一度か二度でいい。その方がありがたみとその夜にかける真剣味も増すというものだ。最近は隣の街に負けてはならじと思うのか、流行のようにどの街も連発打ち上げを催している。それではいつしか市民にとって騒音にしかならなくなる。しかもほぼ街全戸に対し強制である。これでは下手をすると暴走族と同じになってしまう。
 その点、女鳥羽川から遠く眺めるサイレント映画のような花火は謙虚だった。私が顔を向けなければ、その花火は決して主張してこなかった。しかも、目を向ければちゃんと見事な花を咲かせていた。確か今日は諏訪湖が大花火大会だったと聞く。あれは諏訪湖から打ち上げられたものか。しかし果たして、諏訪湖から20キロ以上離れた松本にいて見えるのかしらん。実際のところは何ともおぼつかなかったが、どこの花火にせよここが特等席だと勝手に決め込んで、さて夜八時に起きた人間に朝食を食べさせてくれるところはあるかしらと、多少の不安を覚えながら再び街に歩を向けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

許せない人の総数

2005年08月13日 | 写真とことば
許せない人の総数って、人によって大体決まっているんです。
ふつうは三四人くらいかなあ。
この数はいつもキープしてなくちゃいけない。
つまり、
誰かを許せば、代わりに別の誰かを許さなくなるんです。

その程度のことですよ。

~ある人の言葉(30)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神々の戯れ(1)

2005年08月11日 | 連続物語
 神々は論じ合った。

──我々はついに完璧なるものを創造した。永久に我々を讃えるものとしての生命を。今や満ち足りた。

──完璧であるのか。果たして。なるほど生命とはかつてない発明だった。知覚を持ち、自らを再生産する能力を備え、それが故に永遠である。そこがしかし、心配なのだ。

──なぜ。

──彼らは今までの被造物とは一線を画する。自己を再生できるのだ。それも、種によってはかけ合わせという、ほとんど無限の可能性を秘めた形で。その意味は重い。彼らは世代交代を繰り返しながら存続する。刻々と複雑化し、多様化しながら。その活動の予測は神々である我々にも困難なのだ。星の終わりが彼らの終わりなのか、それとも星をも飛び越えて彼らは増殖するのか。
 生命誕生以前の存在物はすべからく一定の寿命を持っている。この度我々が創造したあの、生命という永遠に再生産し複雑化する機構を内包する輩だけは、予め定められた寿命がないのだ。そこが気がかりである。個々の小さな生命体には寿命があっても、生命という大きな実験には終わりがない。それは恐ろしいことではないか。

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神々の戯れ(2)

2005年08月11日 | 連続物語
──どうしろというのか。

──自己破壊装置を殖えつけておこう。生命の一部を成す生命体に知性と意志を持たせるのだ。

──何と。

──我々神々のように。ただし、我々のように理性が知性を統御するのではなく、生命的な欲望が知性を煽り立てることになる。その知性体は当然ながら、尊い知性を誤った方向へ猛烈に注ぎ始める。彼らは複雑化した生命の最終形態でありながら、同時に生命そのものの存続を脅かすほどの力を獲得することになろう。

──その哀れな者たちに、神々の真似事をさせるのか。

──無論彼らはその器ではない。やがて破綻が来る。彼らは不完全な知性を振りかざす者として、それに相応しい帰結をもたらすであろう。つまり自分たちと、自分たちを育んだ生命に死を与えるのだ。

──それはなるほど、生命という実験装置に安全を与えることになる。しかし、生命そのものをあまりに悲劇的にしないか。

──そう。その知性体が、もし、自らの宿命を自覚することがあるとすれば。

 神々は口を閉ざした。

(終わり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郵政民営化

2005年08月11日 | essay
 新聞の政治面がにわかに活気付いている。郵政民営化法案が参議院で廃案になって、屈辱だと感じた小泉さんが衆議院を解散させて、どうして参議院で廃案になったのに衆議院を解散するんだ、それしか方法はないからだ、さあいよいよ総選挙だ、ちょっと待ってくれよ、これは誰と誰が対決する選挙なんだ、小泉さんと亀井さんだ馬鹿言っちゃいけない民主党はどうなるんだ、と、議論紛糾、喧々諤々(けんけんがくがく)の騒ぎである。

 ところで郵政民営化って何。というのが大方の市井の意見である。するとほれ見ろ説明が足りないから国民の理解を得られてないじゃないかお前ら辞めちまえうるせえ既得利益にしがみつくお前らの魂胆こそ国民の前に晒されてしまえと、また口角泡を飛ばして議員たちの取っ組み合いが始まる。

 かくしてすべての議論は、誰を辞めさせるか誰が票を伸ばすか、という政治家の任期と人気の問題に終始してしまう。しかもその審判を国民に委ねるわけだが、そもそも郵政民営化のような専門的な問題に関して深い理解を得ている国民がどれだけいるか心もとない限りである。

 この辺にすでにして民主主義という手法の限界が見えてくるように思えるのは、郵政民営化について依然不勉強な私の安易な錯覚か。 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005 夏

2005年08月09日 | 俳句
加熱した この時代に注げ 通り雨
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身体責任

2005年08月07日 | 写真とことば
生命には「身体責任」というものがあります。

己の身体は己が生きている間
自然から借りてきたものであり、

自然の一部を成して微小ながら
自然を動かしているのです。

だから己の身体の扱い方について
用心と丁重を尽くす責任があるのです。


~ある人の言葉(29)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする