クリスマスなので、 私も、教会のクリスマスについて書きます。
明日はクリスマス・イヴのキャンドルサービス。
私は「聖書朗読」という大役を仰せつかりました。
(3人のうちの1人)
今年は、オルガン奏楽の中、イエス・キリストの誕生に関する聖書箇所の朗読→黙想→賛美(クリスマスに関する賛美歌を歌う)を繰り返す…という流れで、
牧師のメッセージはなし。
じっくりと深く静かに聖書の言葉を味わう…という主旨。
教会の役員の方から、聖書朗読の奉仕の話をいただいた時、
「えーーーっっ、ほな、牧師先生は何すんの!?」と、純粋に素朴に思ったので、先生にメールしましたとも。
先生からは
「今回は、聖書のみことばに静かに耳を傾けて黙想するのが趣旨で、牧師のメッセージはありません。私も参加者の一人です。」
…ってことは、聖書のみことばを朗読する私たちが「メッセンジャー」みたいなものか、、
それは、ほんとにほんとに大役。
ぜひ人びとの心に深く届く朗読をしたいな。
歌で大切にしている「ことば」を伝えることと同じと考え、
一生懸命朗読の練習をしています。
聖書のお勉強もしとります。
「エッサイの根株から新芽が生え」…というくだり、
毎年クリスマスには耳にする聖書の言葉だけど、
「エッサイの根株」ってなんだ?
エッサイとは、ダビデの父の名。
ダビデは、聖書の中のとても重要な人物…いうなれば「有名人」で、たくさんの詩篇を残していますが、
エッサイとは、身分の低い一介の羊飼い。
イエス・キリストの系図を、ダビデの子孫…といわずに、「エッサイの根株から…」と。
イエス・キリストは、「有名人」や「王」の系図ではなく、最下層の、身分の低い、蔑まれた人の系図から出ていて、
その誕生を、最初に天使によって知らされたのも、夜番をしている野宿の羊飼いたちだった。
全世界の救い主は、一番低いところにへりくだって生まれ、飼葉桶に寝かされた。
…ということを、キャンドルサービスでのストーリーは語っています。
「きょう、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」
(ルカによる福音書 2:11)
これ、朗読していて胸が詰まります。
「あなたがたのために」ということばが迫ってくるのです。
2000年の時を超えて、私のためなのだ…と。
地のいちばん低いところに生まれて、大きなスコップで根こそぎ、すべてもれなく救いとります、、、なイメージ。
私は、右脳人間、感性人間なので、賛美歌や、聖書のことばを、自分の身体で声に出して表現していると、
その言葉や音楽の世界にハマりきって、自分の中で時空を越えて、その世界が再現されるのであります。
それって、すごく幸せなことだと思います。
自分が実際に体験していないことでも、ふっか~~~く感動できるんだよ。
音楽も絵も詩も小説も瀬戸芸もねっ。
こんなふうに私も賛美したいです♪
ところで今日は、サンタクロースからの指令で、クリスマスプレゼントを調達にいってきました。
また別途アップさせていただきます。