「瓦版CARAVAN」の空魚さんの記事「おぶいひも」にコメントを書いていたら、長くなってしまったので、自分のところに持ってきて、加筆、修正しました。
私は、まさに60年代、アメリカに憧れ、スポック博士の育児書をかじった親に育てられた申し子です。
そして、時代は変わり、試行錯誤の子育てをしております。
親からタカミちゃんと呼ばれ、物心ついた頃から、自分の部屋をあてがわれ、自室のベッドで寝ていました。私を教育した母については、2004/12の最後に2夜連続でアップしてます。
母は3歳までに叩いて躾けなければ、物心ついてから叩いたのでは手後れ…などと今でも言っています。それをしなかった、我が息子Takは、既に「失敗作」たども。私は、よく母に叩かれましたが、もしかすると記憶のない3歳以前にもしょっちゅう叩かれていたのかも。だから母を心の底で慕えないのかもしれません。息子の長引くおねしょに関しても、ことあるごとに口を挟まれました。これには私もかなり参りました。今はTakの勉強に関しても、ほんの10分、「お勉強」をやらせているのを見ただけで、「うげー…私とは全く考え方が違う」と感じ、そこで何かが停まってしまいます。母とのやりとりが続くとあるところで、いつも、「何かがそこで停まってしまう」のです。「これ以上は不毛…」と思ってしまうのです。
ところで、Takの保育園の保育参観でも、「体操の先生が子供を呼び捨てにしているのはよくない」という父兄からのクレームがあったようです。
周囲に他人がいるかどうかで、呼び方を変えるということは、私には思いつきませんでした。私は、Takのことを「たっくん」と呼んできました。幼子を慈しむ気持ちで、お腹の中にいるときからこの呼称だったので、他人が同席しているときも「たっくん」と呼んできました。私自身は、自分の生徒も呼び捨てにはしません。けれど、周囲の男の人たちからTakが呼び捨てにされることは、私には嬉しいことでした。社会の中には、人とのいろんな距離、関係があるということを、「呼称」で感じ取るのは、大切なような気がします。
私自身も、さすがに友人や身内以外の人前で息子を「たっくん」と呼ぶのには抵抗を感じるようになってきたところでした。少し前に、本人に「もうあかちゃんじゃないから、『たっくん』はやめようと思うんだけど」と提案してみたのですが、「おかあさんには『たっくん』と呼ばれたい」といって拒否していました。「おかあさんにかわいいと思われていることを感じていたい」からのようでした。
でも、Takも小学生になり、自分から呼び捨てで呼んでと言ってきました。
「じいじ、ばあば」という呼称も、自分から「じいちゃん、おばあちゃん」と変えました。
Takの自然で健全な成長なんだな…と感じました。
それに添って呼称を変えるのは、子供の成長に合わせて、接しかたを変えていくことの一部のような気がします。
「昨日のTakは今日はもういない」
それくらい毎日目に見える成長を遂げて来た時期があった。いや、今でもそうです。入学して、早起きが辛くて、ヨレヨレしていたTakは今日はもういません。
日曜日は自転車の練習で、何度も転んで両膝に蒼アザを何ケ所も作り、昨日も「わんぱく教室」(学童クラブ)で、思う存分遊んだあと、さらに実家にいって、「じーちゃん」に自転車の「発進」の特訓をして貰った。2日めにして、スタートもひとりでできるようになりました。さらにすごい蒼アザが増えました。「これは勲章だね」というと、彼は得意げです。
新居は、リビングが真西に向いていて、晴れた日は大きな夕日が「紫雲山」のむこうに沈んでいくのが見えます。(夏はめっちゃ暑そう~~…) 夕日の色は毎日違います。
1日が終わる。今日はもう二度と来ない。
夕日を眺めながらそんなふうに毎日を噛み締めていけるっていいよ。殺風景な町並みにも、夕日は毎日沈んでいくのです。Takと一緒に眺めることも、これから何度もあると思います。
その度に、「今日はもう二度とこないんだね」と、分かち合えると思います。
「幼児教育の義務化」って、なんだろう?
小学校1年生が、あまりにも無秩序で、「みんなでおべんきょう」するには体勢が整ってなさすぎになってきたので、この際、幼児教育からちゃんと躾けておきましょう。ってこと? そして、日本中の親たちは、幼児教育も「義務教育」に委ねて自分で考えて伝えることを放棄するのでしょうか?
日本中のオトナが「マニュアル」を求めているような気がしています。
仕事、育児、介護、家事、学習、ファッション…
先日、当ブログのコメンテイターhawkさんが、「ローソンの店員は標準語を喋る」というようなことを書いていらっしゃいました。「標準語研修」を受けているらしいと…
私は、東京から高松に移動してきて、真夜中に高松中央I.C.で降りたとき、24時間のローソンで、標準語で道を尋ねました。店員の若いおにーさんは、標準語で対応してくれましたが、だんだん話が込み入ってややこしくなってきたところで、やはり高松弁がだんだん出てきました。「標準語研修」のマニュアルは、最初の「入り口」だけでしか役立っていないようです。
会社としても「あとは自分で応用しろ」というところなのでしょう。
ローソンに限らず、どんなジャンルのマニュアルでも「あとは自分で考えろ」。
けれども、深夜のローソンから外に出て道を教えてくれた店員のにーちゃんが、親切に高松弁で道を教えてくれたことに、私はとってもあったかい気持ちになったのです。
マニュアルなんかクソ食らえ!
私は自分で考えたことを伝えるということを大切に思います。
親だからこそ、自分の生き方をまるごと伝えるべきと思います。
もしも、私がしたことや考えたことが間違っていたら、それを伝えられた息子は、また自分の頭で考えて、修正したり、新しく考えたりして、前に進んでいけばいい。
考えることで、人間は前に進むことができるのだと思います。
しか~~~~し!!
私は、「タカミちゃん」と呼ばれるのが好きです。
郷里には、私のことを「タカミちゃん」と呼ぶ人たちがたくさんいます。この歳になっても、オッサン、おばさんになった幼馴染みたちから「タカミちゃん」と呼ばれると、和むし、心が緩みます。
親戚一同が集まるばーちゃんの法事なんかで、オッサン、オバサン同士が「…ちゃん」と呼び合う様子なんか、結構好きなのです~~
私は、まさに60年代、アメリカに憧れ、スポック博士の育児書をかじった親に育てられた申し子です。
そして、時代は変わり、試行錯誤の子育てをしております。
親からタカミちゃんと呼ばれ、物心ついた頃から、自分の部屋をあてがわれ、自室のベッドで寝ていました。私を教育した母については、2004/12の最後に2夜連続でアップしてます。
母は3歳までに叩いて躾けなければ、物心ついてから叩いたのでは手後れ…などと今でも言っています。それをしなかった、我が息子Takは、既に「失敗作」たども。私は、よく母に叩かれましたが、もしかすると記憶のない3歳以前にもしょっちゅう叩かれていたのかも。だから母を心の底で慕えないのかもしれません。息子の長引くおねしょに関しても、ことあるごとに口を挟まれました。これには私もかなり参りました。今はTakの勉強に関しても、ほんの10分、「お勉強」をやらせているのを見ただけで、「うげー…私とは全く考え方が違う」と感じ、そこで何かが停まってしまいます。母とのやりとりが続くとあるところで、いつも、「何かがそこで停まってしまう」のです。「これ以上は不毛…」と思ってしまうのです。
ところで、Takの保育園の保育参観でも、「体操の先生が子供を呼び捨てにしているのはよくない」という父兄からのクレームがあったようです。
周囲に他人がいるかどうかで、呼び方を変えるということは、私には思いつきませんでした。私は、Takのことを「たっくん」と呼んできました。幼子を慈しむ気持ちで、お腹の中にいるときからこの呼称だったので、他人が同席しているときも「たっくん」と呼んできました。私自身は、自分の生徒も呼び捨てにはしません。けれど、周囲の男の人たちからTakが呼び捨てにされることは、私には嬉しいことでした。社会の中には、人とのいろんな距離、関係があるということを、「呼称」で感じ取るのは、大切なような気がします。
私自身も、さすがに友人や身内以外の人前で息子を「たっくん」と呼ぶのには抵抗を感じるようになってきたところでした。少し前に、本人に「もうあかちゃんじゃないから、『たっくん』はやめようと思うんだけど」と提案してみたのですが、「おかあさんには『たっくん』と呼ばれたい」といって拒否していました。「おかあさんにかわいいと思われていることを感じていたい」からのようでした。
でも、Takも小学生になり、自分から呼び捨てで呼んでと言ってきました。
「じいじ、ばあば」という呼称も、自分から「じいちゃん、おばあちゃん」と変えました。
Takの自然で健全な成長なんだな…と感じました。
それに添って呼称を変えるのは、子供の成長に合わせて、接しかたを変えていくことの一部のような気がします。
「昨日のTakは今日はもういない」
それくらい毎日目に見える成長を遂げて来た時期があった。いや、今でもそうです。入学して、早起きが辛くて、ヨレヨレしていたTakは今日はもういません。
日曜日は自転車の練習で、何度も転んで両膝に蒼アザを何ケ所も作り、昨日も「わんぱく教室」(学童クラブ)で、思う存分遊んだあと、さらに実家にいって、「じーちゃん」に自転車の「発進」の特訓をして貰った。2日めにして、スタートもひとりでできるようになりました。さらにすごい蒼アザが増えました。「これは勲章だね」というと、彼は得意げです。
新居は、リビングが真西に向いていて、晴れた日は大きな夕日が「紫雲山」のむこうに沈んでいくのが見えます。(夏はめっちゃ暑そう~~…) 夕日の色は毎日違います。
1日が終わる。今日はもう二度と来ない。
夕日を眺めながらそんなふうに毎日を噛み締めていけるっていいよ。殺風景な町並みにも、夕日は毎日沈んでいくのです。Takと一緒に眺めることも、これから何度もあると思います。
その度に、「今日はもう二度とこないんだね」と、分かち合えると思います。
「幼児教育の義務化」って、なんだろう?
小学校1年生が、あまりにも無秩序で、「みんなでおべんきょう」するには体勢が整ってなさすぎになってきたので、この際、幼児教育からちゃんと躾けておきましょう。ってこと? そして、日本中の親たちは、幼児教育も「義務教育」に委ねて自分で考えて伝えることを放棄するのでしょうか?
日本中のオトナが「マニュアル」を求めているような気がしています。
仕事、育児、介護、家事、学習、ファッション…
先日、当ブログのコメンテイターhawkさんが、「ローソンの店員は標準語を喋る」というようなことを書いていらっしゃいました。「標準語研修」を受けているらしいと…
私は、東京から高松に移動してきて、真夜中に高松中央I.C.で降りたとき、24時間のローソンで、標準語で道を尋ねました。店員の若いおにーさんは、標準語で対応してくれましたが、だんだん話が込み入ってややこしくなってきたところで、やはり高松弁がだんだん出てきました。「標準語研修」のマニュアルは、最初の「入り口」だけでしか役立っていないようです。
会社としても「あとは自分で応用しろ」というところなのでしょう。
ローソンに限らず、どんなジャンルのマニュアルでも「あとは自分で考えろ」。
けれども、深夜のローソンから外に出て道を教えてくれた店員のにーちゃんが、親切に高松弁で道を教えてくれたことに、私はとってもあったかい気持ちになったのです。
マニュアルなんかクソ食らえ!
私は自分で考えたことを伝えるということを大切に思います。
親だからこそ、自分の生き方をまるごと伝えるべきと思います。
もしも、私がしたことや考えたことが間違っていたら、それを伝えられた息子は、また自分の頭で考えて、修正したり、新しく考えたりして、前に進んでいけばいい。
考えることで、人間は前に進むことができるのだと思います。
しか~~~~し!!
私は、「タカミちゃん」と呼ばれるのが好きです。
郷里には、私のことを「タカミちゃん」と呼ぶ人たちがたくさんいます。この歳になっても、オッサン、おばさんになった幼馴染みたちから「タカミちゃん」と呼ばれると、和むし、心が緩みます。
親戚一同が集まるばーちゃんの法事なんかで、オッサン、オバサン同士が「…ちゃん」と呼び合う様子なんか、結構好きなのです~~
ブログの内容にひとつひとつ、うなづいております。
そのとおりです。
やはりTAKAMIさんと同世代を生きてるんでしょうか?
子どもをどう呼ぶのかはむつかしい選択技のようですが…
クラブでは苗字を「~さん」付けて呼んでいるようです。
その方が、何事にもしっくりいくというマニアルのようですが…
その場で「~ちゃん・~くん」だったりします。えみりんはねぇ~♪
呼び捨てはできません。
一人の人格がありますから
お役所仕事は何でも「マニュアルどおり」ですから
現場で仕事してみない人に限ってそういうことを言うのです。
ふるさとの言葉って大切ですよねぇ
えみりんは標準語はしゃべれませんが…
それでも、あたたかさがあれば、言葉は通じると思っております。
旅をして故郷の言葉を聞いたり、見たりしたら嬉しくなります。
>今日はもう二度と来ない。
>「タカミちゃん」と呼ばれるのが好きです。
共感しております。
そのまんまでいいんじゃないでしょうか?
「たっくん」から「呼び捨て」でいいよ、と自ら言うあたり、これ以上はないと言えるほど順調に育ってると思うなぁ。
擦り傷沢山作っても、弱音を吐かずチャレンジしてるし、
takくん、いいよー、とっても。
だいいち、お母さんがいつもキラキラしているんだから、
それが子供にとっても一番、だと思うよ。
うちの息子が同じことを言ったら、誇らしい反面淋しくも感じるだろうなぁ・・・。
我が家では基本は呼び捨てですが、子離れできてない私の気分で「くん」をつけたりあだ名で呼んだりしてます。本人にはNGを出されているんですが(-_-;)
いい加減中学生にもなって小さい子扱いしてはいけないと思うのですけどね・・・。まもなく声変わりもするだろうし、どんどん離れていってしまうのでしょうね~。あぁ!淋しい(涙)
団塊世代として生き抜いて今日在る
小生としては、生い立ちそのものに
厳しさの違いや、世の中の風潮など
現在とのギャップを感じつつ
匠君のキャラは、十分備わってきてると
小生は気がついています。
あまり彼と触れ合っているわけではないが
貴美さんが母親としてのイメージの範囲と
小生の感じ方に当然ながら違いがあるが、
確かな答えを感じて欲しいと思います。
彼の生い立ちのなかで大人空間・子供空間
その空間に自身を浮遊させ吸収する環境下、
多くの人たちへの洞察機会が、彼には他の子供に無い経験としてこれから後、発揮されると思う。
そんな時々に親として高所大所から導いて
あげれば、いいと思います。
ほっときながら、時々洒落の利いたアドバイスで、軌道修正してあげれればいいのかと感じます。
母親の枠に閉じ込めず大らかな気持ちで
付き合って欲しい、不自由な都会生活から
(失礼ながら)田舎暮らしとの格差を体験し、
自由な空間を羽ばたき始めた匠くんに応援を
皆宜しく!感傷に浸っていられないんだよ。
強くなれ”母殿”
自分の人生をやり直してるような感じだったな~。
でも、うちの親も世間並みに子供と孫で微妙に対応が違うところがあって
腹立たしくもあり、嬉しくもありといった所ですね。
私はことごとく母親らしくない事をして子供の先入観を無くそうと努力してますが
まだまだ子供を混乱させているだけでしかなく、自分の小ささを痛感してます。
今日はここまで。
また、お邪魔しますね。
今の先生は昔に比べて窮屈でしょうねぇ、きっと(^^;。
>マニュアルなんかクソ食らえ!
まったく同感ですね。
ある程度基礎は必要だけど、ロボットじゃないんだから多少の個性はあってもいいと思うんですよね。
俺が昔ファミレスでバイトしていたときに、本部の上司がやってきて、ひと言「またお越しください」を言い忘れただけで店の評価が減点になりました。
何だか仕事やる気なくしたのを覚えています。
今となってはマニュアルはないけど、皆さんが満足いくことができればいいかなと思いますね。
そのためには常に勉強かもしれませんね(^^;。
Takの「わんぱく教室」の先生は、Takのことを「たくみくん」と呼んで下さいます。でも、「名字+さん」がマニュアルなんだろうなあ??
入学式のとき、男子も女子もごちゃ混ぜで、五十音順で、全員「~さん」っていうのが、新鮮でした。
えみりんさんも、新しい学校で、新しい生徒達に囲まれていらっしゃるんですよね。
また、いろいろお話、聞かせてくださいね。
♪ikehirochan2さん
私は最近あんまりキラキラじゃないですよ~。
東京時代にキラキラだったかどうかも疑問ですが、、ここでは私はただの「原石」です。でも「ただの原石で終わらないぞ」という気持ちだけはとりあえず持っているつもりなのですが。
Takもなんだかスレスレのところをいっているようで、絶対「ゆったりのんびり」が必要な気がするし。
お互いにペースを掴むのにはまだまだかかりそうです。
♪ペコちゃん
うん、寂しい寂しい!! 今はまだ抱きついてくるので「よしよし」もできるけど、じじばばは、いきなり「じーちゃん、ばーちゃん」と呼ばれるようになって、ちょっぴり「突き放された」ような気がしているようです(^_^;)
自分のことをTakに向かって「じーじ」「ばーば」と言ってたもんで(^_^;)
今のうち、べたべたに甘えてるほど、離れていくときは、あっと言う間に遠ざかっていくんだろうな~~ 考えただけでも寂しいよ(T_T)
♪kannoさん
連日のコメント大変嬉しいです!
>ほっときながら、時々洒落の利いたアドバイスで、軌道修正してあげれればいいのかと感じます
コレって、普通ならどちらかというと「父親」の役割的ですよね。
母親はどうしたって、「あーだこうだ」と世話をやき、いちいち口煩くなるもんですよね! これが難儀です。二役を使い分けるってのは無理! 「役になる」ってな類いのものじゃないですしね。
なので、やはりここは、「かーちゃんTAKAMI」ってことで、どどぉ~~んと構えるしかないのでは…と思ったりしています。
まだまだこれから、先は長いっす!
♪まるちゃん
おひさしぶり~~~!
いつぞやTELいただいて以来ですね。
私のほうこそ、安心したよ~~
まるちゃんも特殊な?お母さんだもんね。いろいろ語りたいよ。
あっ、それと私、夏にはWinに変えて、楽譜を書くソフトも導入しようと思ってるんだけど、いろいろ教えてね~~!!
お金がないと延期になるんだけどね(^_^;)
またゼヒゼヒ遊びにきてねっ(#^_^#)
♪HM-LINEさん
園児を呼び捨てにした先生は、とっても人気があって、子供の憧れだったのです。
これって、少し前のTakの乱暴事件とすごくオーバーラップするんだけど、Takは、TVの「孫悟空」にすごく憧れて、その「孫悟空」が乱暴な口調で「正しいこと」をいうので、真似しまくっていたのでした。
憧れの先生が、園児達を呼び捨てにすると、子供達も真似をします。「おかあさんにはいけないって言われてるけど、いいんだ!!」と思うし。これが、「お母さん」は困るのです。そして「やめて下さい」となる。
自分はいろんな呼ばれ方をして、いろんな扱いをうける。でも、どんな時でも「自分」をしっかりと、大切に、、、などと子供をひとまわり大きくさせるチャンスと受け止めればいいと思うのですけどね。
マニュアルは…これはもう、書きはじめると、とめどなくなりそうなので、また別の機会にします、、