先日行った蕎麦屋の蕎麦が、どうにも納得いかない蕎
麦だったことに関して、ある筋から、重要な情報がも
たらされた。
と、大袈裟に言うほどのことでは勿論ないのだが、な
ぜひどい蕎麦だったかということが良く解る、その内
容だった。
情報によると、その蕎麦屋では、製麺所の蕎麦を仕入
れているらしい。
とすると、当然機械打ちの蕎麦だし、蕎麦粉もどこの
蕎麦粉か判らない。
こちらの感想、乾麺のような感触、エッジのない断面、
蕎麦の香りのしない蕎麦、全てが納得ということにな
る。
その蕎麦屋は、手打ちと仕入れた蕎麦を使い分けてい
る、という話もあるが、確証はない。
しかし、客は入っている。
まあ、原因はともあれ、蕎麦としてひどいことには変
わりないから、いかなければ良いだけの話だ。
それにしても今回も感じた事だが、食べ物屋というの
は、ある質を保つためには適正規模というものがある
とつくづく思う。
打ち手が一人だったら、それこそ20人くらいが適正
規模だろう。
これは蕎麦屋に限らずの話で、フランス料理だって、
本当に良い店というのは、そのくらいの規模ではない
だろうか。
責任ある作り手の目が行き届く範囲。
店が大きくなって、内容が良くなったという話は聞い
た事がない。
逆に、味が落ちたと言う話は五万とある。
もうこれは、絶対的な法則と言っても良いのではない
か。
店の大きさに比例して味は落ちる、という法則。
これを「店堕落の法則」と名付けたい。
但し、この法則には、注が入る。
客の入りには影響しないと。
それは今回の「赤福」問題などを見ても明らかな事で、
味がどうのは関係ないことだから。
よほどひどい味だと流石に関係するが、レベル的には
大して美味くはない、というレベルで充分だ。
名物に美味いものなし、というのはその辺の事を良く
表わしている言葉ではないか。
売れるためには味よりは名前、ブランドなのだ。
有名店に美味いものなし(今作ったが)、というのも
ある意味間違いでは無さそうだ、もう一つついでに、有
名人が通う店に美味いものなしというのもある。
一番残念なことは、この傾向がどんどん強くなっている
ということなのだ。