先日、日本の理系の学力レベルが落ちたという結果が
出た(ということになっている)。
そうなると、「技術立国日本」の将来は大丈夫かとい
う話に、当然なってくる。
理系離れというのは、ここのところずっと言われ続け
ている。
多分、そういう傾向にあることは間違いないと思う。
一言、地味な世界だから。
ここでどうしても思い出すのは、その対極のスポーツ
の世界。
華々しい活躍をして、注目され、一躍有名人。
ごく一部の人間が、そういう栄光をつかむ世界である
のだが、自己完結のドラマは、単純なだけ人を引き付
ける。
美しいアスリートの世界(惹句)。
選ばれし天才(これも良く聞く惹句)。
多くの人間が憧れを持つのも、止むを得ない。
一方の理系の場合、唯一と言って良い注目される場は、
「ノーベル賞」くらいなものだ。
殆どは、自分の興味のあることを、こつこつ自分の納
得いくまで求めるといった職人的世界だ。
そして、今までの日本は、その技術者の職人気質的な
部分に依存して来たのだろう。
しかし、世の中、「暗い」「明るい」と単純な二元論
で評価し始めたり、理系のイメージは落ちる一方。
今でこそ、ややアップしてきたが、未だ「オタク」の
世界という見方は根強いのではないか。
一方、スポーツの世界は、マスコミと一体化して隆盛
の一途だ。
たとえ五輪で金メダルを取ったからといって、日本の
文化が豊かになるわけでもなく(関係者はスポーツ文
化が豊かになると言うが、一部のスポーツエリートが
豊かになるだけのこと)、国力が増すわけでもないの
だが、その瞬間の感動に至るステレオタイプのドラマ
を、人は求める。
ナショナリズム的熱狂が、一番興奮させるのは間違い
ない。
「感動を再び」という言葉がどれほど魅力的か。
だから、五輪がスポーツの頂点の如くなっているのだ。
サッカーだったら、WC。
価値の重さを設定して、それに合わせ評価の基準を変
える。
スポーツ全体で、カードゲームのようなものなのだが、
いつしか絶対的なものになるのは、生活がかかってく
るから仕方ないのか。
今や、スポーツは無視できない産業だ。
肥大化、とも言われるが。
だから余計に、スポーツばかりが注目されるのは、問
題ではないのかと思う。
同じ五輪の「技能五輪」の方が、日本の国力において
も、日本人の良さといわれている真面目さを養うにも、
その職人気質的資質を育てる上にも遥かに意味がある
のではないか。
肉体を駆使するスポーツは、放っておいても注目され
る。
しかし技能は、放っておいたら衰退するし、全く注目
もされない。
技能も同じ理系の世界。
最近の理系離れと無関係ではない。
つまり「オタク的世界」にもっと光を当てるべきでは
ないかということなのだ。
いくら「オタク的」といっても、やはり評価されれば
やる気も増すし、そもそもそれだけの価値があると思
う。
勿論、「技能五輪」などは、最適な場である。
それと、何かにつけ評価システムがないと言われる日
本だが、公的なものは相変わらず貧弱だが、私的な評
価システムがすでにあるではないか。
それが「萌え」だ。
つまり「工場萌え」とか「鉄道萌え」、中には「工作
機械萌え」などもあるかもしれないが、その「萌え集団」
は、それら技術に対する評価する人たちでもある。
私的な評価システムを支えているのが、彼ら萌え集団
であるのだ。
アニメだったら普通だが、理系に対する「萌え文化」は、
日本独自のものではないか。
ひょっとすると、こういった文化を大事にするのが、
理系離れを食い止める一番の手立てかもしれない。
と、最近は、「萌え」に対する考え方も改めて、肯定
的に捉えている。